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2017/06/04

ピアジェの「感覚運動期」と触感の遊び

子どもの頃の「触感の記憶」として、想起するものはなんだろう。


ぼくがめちゃくちゃ覚えているのは、いつも遊んでいた名古屋市千種区にある「弁天公園」という公園の小高くもりあがったところに粘土質の土があって、その土をほじくり返して、水を加えて、縄文式土器をつくっていたときの触感だ。粘土質の土が綺麗ならいいんだけど、砂利とか松の葉とかが入っているとちくっとして嫌だ。それを丁寧に取り出して、粘土をよくこねて、底板をつくって、細くのばした粘土をドーナツ状にして積み上げて、段差を均して、器の形にしていった。公園のトイレのトイレットペーパー置き場の脇に隠して陰干しして、焼き芋大会の日に焼こうとして、見事に割れた。あの時のパサついた土の塊の触感とか、われたあとにそれなりに陶器?っぽくなっていたこととかをよく憶えている。

それぐらい触感というのは記憶に深く焼きついているものでもある。(ちなみに今それは、もしその触感の現場が残っていたとしたら、google earthで見ることができる。視覚情報から触感を強く想起することができるはずだ)

ところでぼくは0~6歳の子どもたちに向けて「触感遊び」のワークショップを作り続けているが、触感というものが彼らの発達にとってどんな意味を持つものなのか、改めて少し整理してみた。人間は受精して7週後には触覚器の構造が成立し、11週後には触覚器として機能し始める。相当早い時期からぼくたちは触覚を持っているし、それは単細胞生物のころから触覚があると言われる。

出産の瞬間のことを考えても、ぼくたちは生まれた直後に優しいおくるみに包まれ、そっと抱いてもらう。そのあともしばらく抱っこされて育つ。低体重児のケアには、カンガルーケアといって、密着して抱っこしている時間が長い方が体重の増加が早い、という実験結果もある。包まれ、抱かれる、という経験は、私たちの触感の記憶の深いところに根ざしているはずだ。だがそれらは大抵「抱かれる」「触られる」という受動的な経験だ。手を伸ばし、ものをつかめるようになるのは、生後4ヶ月頃からだと言われている。そこから、「触感の遊び」が始まっていく。
乳幼児は、寝るし、泣くし、食べるし、排泄する。そして、遊ぶ。この遊ぶという行為は、彼らにとって学習そのものだ。


こうした「触感の遊び」のなかで彼らは握ったら縮んだ、引っ張ったら破れた!くしゃくしゃと鳴った!という物事の因果関係を次第に理解していく。ピアジェの発達理論をベースにし、触感と認知の発達の関係を少しひもといてみたい。


ピアジェは、子どもの発達の段階を大きく4つに分けている。0~2歳は「感覚運動期」2~7歳が「前操作期」、7~11歳が「具体的操作期」、12歳以降が「形式的操作期」。「あかちゃん」と言われている時期はこの中で当然「感覚運動期」に該当する。



さらにこの「感覚運動期」というのを六つに分けている。
まず、第一段階は「反射」。誕生から1ヶ月頃までと言われています。唇の近くに何かを充てると吸おうとする「吸啜反射」。手にものをあてると握ろうとする「把握反射」、驚くと抱きつく様な動作をする「モロー反射」など、いろいろある。母親への庇護を求める動作や、母乳を求める動作が生得的にプログラムされている、と言える。

次の段階が「第一次循環反応」。1ヶ月から4ヶ月と言われている。自分の身体に限って、興味ある活動を繰り返し生み出すのです。拳を発見してしゃぶり始める、とかそういうことですね。それまではしゃぶるとか吸うとかいうことが、生物学的な反射だったわけですが、ここらへんからは意図してできるようになっていきます。
次が「第二次循環反応」。4~8ヶ月と言われている。ものを持てるようになったら、触感の遊びの始まりです。ガラガラを振って音を鳴らしたり、上の映像のように袋を握ってくしゃくしゃさせたりできるようになる。
その次に「第二次循環反応同士の協応」。これは、8ヶ月~12ヶ月。物を容器に入れたりすることや、棒で太鼓をたたいたりすることが、このカテゴリーに入ると思われる。ただ、太鼓とペットボトルで叩いたときに音が違うことなどはまだわかっていない。
さらにその次に行くと「第三次循環反応」に到達する。この段階は、12ヶ月~18ヶ月ごろに見られ、モノの新しい特性を自分で発見しようと探求をするようになっていく。例えば、物を積み上げたり、力加減をかえてボールを投げて、その飛び方を考える、というような感じです。
そして、感覚運動期の最後が「心的表象」。18ヶ月から24ヶ月、つまり2歳ぐらい。このころには、自分の行為を心の中で表象することができるようになる。たとえば、おもちゃのフライパンに、石ころをいれて、炒める動作をしたあとに、その石ころを食べるふりをして「おいしい」とか、「どーぞ」って言ったりする。それは食事というシーンを表象している。
さぁここまでは基本の説明だが、感覚運動期の発達段階というのは、まさに私たちの「触感」の楽しみ方そのものではないか、と思う。例えば、自分の手を触ってみる。ああ手だなぁと思う。これが第一次循環反応。そして、次に手で、目の前の机を叩いてみる。お、音がなる。これ第二次循環反応。ボールペンでこすってみる。第二次循環反応同士の協応。叩き方を変えて音の違いを確かめる。これが第三次循環反応。ちょっと演奏っぽくしてみる。音楽というイメージを持って叩く。これはが心的表象。という感じ。
よく批判されることだが、ピアジェ関連の本を読んでいてもあんまり情動のことが出てこない。だが、触感と気持ちは結びつきが深い。触感の遊びはチクセントミハイの「フロー理論」ともつながりがあると思われる。たとえば、初めて出会うものというのは好奇心をそそると同時に、不安な気持ちを生み出す。この不快(不安)に好奇心が勝り、手を伸ばして触った先に「お!面白い!」とか「お!きもちいい!」とか、快の感情が芽生える。やってるうちに「おおおおおおおもしれえええ」というようにのめり込んでいく。「こうしたらああなるかな、ああしたらこうなるかな」と試行錯誤をする。この段階でもうフローに入ってる。

そう考えると、例えば洋服をつくるということにハマっていくプロセスを考えてみる。はじめは、消費者として感覚的にいい、かっこいい、って思っていたり、もしくはファッションに対して何か考えを持っていて、服作りに関心があったとする。で、いざ自分で服を作ってみると、まずは生地の触り心地にどきどきする(第一次循環反応)。なれないミシンにそわそわする(第二次循環反応)。形式を真似て、なんとか服を作ってみた(第二次循環反応同士の協応)。その次は生地とミシンの組み合わせを変えて、ああしようこうしようと試行錯誤する(第三次循環反応)。そして、ついには服を通して何か世界観や思想を表現できるようになる(心的表象)。ぼくたちが何か創造的な活動に「ハマる」プロセスが、めちゃめちゃ凝縮されてるのが触感遊びなんだと思う。

感覚運動期は、素朴にものづくりを楽しむプロセスでもある。その出来栄えや結果にはあまりこだわらず、ものがどうすればかたちになるかを、触っているうちに明らかになっていく。ぼくが遊んでいた土器作りも、創作における感覚運動期だといえる。

だが、この話は共感性の話抜きには考えることはできない。触感遊びを1人で楽しむのではなく、他者からの影響を考慮しなければならない。このあたりの話は、次に譲る。