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2017/09/12

消費と浪費と格闘技 ー異種格闘技イベント「巌流島」に行った

92日は異種格闘技イベント「巌流島」をたっぷり楽しんだので、ちょっとそれについて思考してみる。

まず、最初にちょっとわけのわからないことを書くが、この格闘技観戦で興奮したことはぼくにとって尽きる事のない消費の一環なのか、それとも人生を豊かにする贅沢の一つなのか、ということについて。2011年に出版された『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著/朝日出版社)を読んで以来、この消費なのかそうでないのかについては、ずっと考えている。

この本『暇と退屈の倫理学』では「暇と浪費はよいが、退屈と消費はダメだ!」という。「暇」とは客観的な時間のことであり、「退屈」とは主観的な状態である。「浪費」とはものを楽しむことであり、満足があるが、「消費」とは記号と観念を求めることであり、満足がない。

私たちはどうしても退屈への不安にとらわれてしまう。だからそこから逃げるために気晴らしを探す。気晴らしは楽しみでなくて興奮であればよい。そのために消費社会はあらゆるサービスを用意している。いろんなレイヤーで世界が分かれているので、洋服も欲しい、音楽も聴きたい、ゲームもやりたい、となる。衝撃的な事件のニュースを追いかけることも、あるいは退屈しのぎの気晴らしなのかもしれない。気晴らしは本当に気を晴らす事にはならず、記号や観念を消費していくだけなので、どれだけ消費しても満足することはできない。

では、退屈してしまう人間の生と向き合うためにはどうすればいいか。この本の結論としては〈人間であること〉を楽しみ、〈動物になること〉を待ち構えよ、というものだった。どういうことか。人間は何かを楽しみながら、「楽しむとはどういうことか」を考えることができる。それは思考する事を楽しむことである。一方で「楽しむ」とは、なにかに〈とりさらわれる〉ことである。まるで動物になるように、ある世界に没入すること。その両方を往復することで、むやみやたらと消費を追い求めるのではなく、日常的実践のなかにある様々なものごとに「楽しみ」を見出すことができるようになる。退屈の問題は「自分」の問題であるが、この問題に「楽しむ」ことをもって向き合えた時、関心は他者へと移っていくだろう、と希望を示して文が結ばれる。

というわけで、ぼくは2日は〈動物〉になってガンガン夢中になってきたわけだが、ちょっとその楽しかったことについて思考してみる。

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92日 異種格闘技イベント「巌流島」

子どもの頃からプロレスやらジャッキーチェンやらが好きで、ボクシングの飯田覚士選手の世界戦も見に行ったことがあって、格闘技的なものが大好きだった。これまで生きてきて何度もボクシングジムに通おうか迷ったことがあるが結局行っていない。中学~高校の頃はPRIDEK-1も超盛り上がっていたこともあって、大晦日は紅白歌合戦そっちのけで格闘技に夢中になっていた。まぁ、よくいる男子だ。

そんで大人になってみるとPRIDEもなくなりK-1も地上波で見なくなって、あー総合格闘技はUFCしかなくなっちゃったか~テレビで見れないしな~などと思っていると、妻から「巌流島っていう格闘技のイベントがあるみたいだよ」と聞く。え?巌流島知らないなぁ、と思ってYoutubeで調べてみると、「柵なしの円形の土俵で、3回転落させたら勝ち」「関節技は無し。寝技(パウンド)は15秒まで」などなどルールが面白い。さらには菊野克紀選手や小見川道大選手など、かつてHERO’Sで活躍してた選手がメインを張る。菊野選手の三日月蹴り大好きだったので、ライブで見られるのかよ!と興奮した。よし、なんだかわかんないけど、格闘技好きだし、応援行こうぜ!となって、56日に見に行ってみた。当日券を買ったら運が良かったのかSRS席の前から3列目が空いていて、目の前でファイターたちを見られることになって、ウヒョ~!!という感じだった。

そのなかでもちょっとした知り合いのつながりもあった選手を応援に行った。それが193cm100kg越えという大器、シビサイ頌真選手。ボビー・オロゴンからの刺客でアフリカの伝統格闘技のファイターとの対戦だったのだけど、実力差がありまくりだったのか、1ラウンドであっという間に転落3回で決まってしまった。おおお、なんだかすごい強そうじゃん。もっと強い相手との試合がみたいぞ!と興奮。

他にも、精神保健福祉士という職種を生業とする実戦空手の原翔大選手は「ひきこもりの陰キャラファイター」という帯付きで、めっちゃ応援したくなる。ご自身で経営されている法人「ささえる手」の名前が出てきて、わ!格闘技界の福祉の星だ!と思った。そしてバックハンドブローやハイキック、集中しまくったあ試合運びなど、陰キャラというふれこみとは真逆の華のあるファイトで、夫婦でファンになった。

で、92日には2回目。さすがにA席だったので後ろのほうだったのだけど、巌流島は金網もリングロープもないのでめっちゃくちゃ見やすい。シビサイ選手も原選手も前回の大会でファンがついたようで、若手の最注目株となっていた。


どの試合も、めちゃんこ面白かったから、13日の大会は友達も誘っていこうと思う。

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格闘技とボディイメージ

で、前置きが長くなったんだけどここからがこの格闘技を見てて色々考えたこと。現場で試合を観戦する醍醐味はなんといってもその臨場感である。目の前でファイターたちが試合に臨む。その場にぼくらも臨む。「シュッシュ、バン!ススス・・・バン!バン!」(選手のフットワークやの音)、「スパーーーーン!」(弾けるローキックの音)、「ズドン!」(投げ技で身体が落ちる音)、「ゴッ、ゴッ、ゴッ」(叩き込まれるパウンドの音)など、音がスゲェ。あんなんと対峙したら、まして技食らったらシヌゥ~!みたいな感じで、見ている側はヒヤヒヤしながら、勝敗が決まる瞬間にはドッと盛り上がる。

で、推しの選手がいたりするとこれまた大変だ。選手の身体に憑依するように、殴られたら痛いように感じるし、技が決まったら嬉しくなる。推しの選手の身体感覚を自分の中でイメージしながら見る。

脳の中には身体のイメージ図(=ボディ・イメージ)があって、そのボディ・イメージは他者に感情移入すると相手の身体をトレースする。もちろん選手とぼくでは全く身体の仕様が違うのでトレースの精度は超低いはずなのだが、目の前で繰り広げられる闘いの熱量と響く技の音の臨場感が自分を興奮に誘い、選手の身体のように強くなったと錯覚する。その錯覚のなかでぼくたちは試合を見るので、なんだか強くなったような気分になる。この「強くなったような気分」にはちょっと注意が必要だなと思った。

当然だが実際に試合しない自分のボディ・イメージは感覚をともなわない。しかし、選手たちは、ヒットした顔やボディ、ガードした腕や殴った拳の痛み、加速した心拍や過熱した体温を感じる。痛みや過熱は苦しみであって、それを味わうことは恐怖でもある。菊野選手が試合後に「格闘家は相手と対峙する恐怖を、勇気で克服する。その勇気を見せることで、元気をもらってくれたら嬉しい」と素敵なコメントをされていた。ぼくたち観客は、この恐怖には直接は対峙せず、脳内のイメージだけで、技が決まる快感を錯覚する。錯覚しているということを自覚し、現実との溝を埋められるよう努めながら試合を見るか、無自覚に錯覚に没入するかってだいぶ違うな~と思った。

じゃあどうすれば錯覚と現実の溝を埋められるか。そんなときに今はやりのVRは効果があるんじゃないかなぁと思った。例えば、ヘッドマウントディスプレイで、対戦相手との距離感やパンチやキックの速度を一人称視点で観ることができたらば、選手の恐怖心への共感が変わる気がする。試合前にロビーでこれを体験できるサービスあったら、観客の体験の質はぐぐっと上がるだろうし、選手へのリスペクトが増すだろうと思う。VRじゃなくてリアルで、試合後とかに選手とリング上で対峙できる体験とかあったら、ぜひやってみたい。菊野選手のいう恐怖とそれを克服する勇気を想像する力を、それらの体験は向上させると思う。格闘技をテーマにワークショップをつくる機会があったら、そういうのをやってみたい。


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「巌流島」を観に行くことは、消費なのか浪費なのか

ぼくは前から予定を入れておいて仕事を空けて巌流島を観に行き、楽しんで、その楽しみ方についてさらに考えたので、これは消費ではなく贅沢をしたと言える。ただ、あの試合の面白さは中毒性があり、もっと見たくなる(満足できなくなる)感じがあるのも確か。まぁそれがエンターテイメントというものなので、それはいい。


格闘技の観戦を通して、ぼくとしては仕事に関係することを学べる事も少なくないし、今後もフォローしていきたいと思いましたという話。

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