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2016/05/02

幸せ、日陰、闘い ー酒井順子『子の無い人生』を読んだ。

TBSラジオの『荻上チキ・session-22』をPodcastで聞きながら電車で通勤するのが僕の日課なのだけど、4月5日の「session袋とじ」のコーナーで、酒井順子さんの『子の無い人生 』という本が紹介されていた。ラジオを聞いて、「子どもがいない私は誰に看取られる?」という痛烈な問いとか、「子育て右翼」という興味深い見立てとかを聞いているうちに、この本をなんだか読まなければいけない気がして、amazonで注文した。


"酒井順子、はたと気づく。独身で子供がいない私は、誰に看取られる?『負け犬の遠吠え』から12年、未婚未産の酒井順子の今とこれから。30代は既婚女性と未婚女性の間に大きな壁がありました。結婚していなければ単なる「負け犬」と思っていた酒井順子は、40代になり悟ります。人生を左右するのは「結婚しているか、いないか」ではない、「子供がいるか、いないか」なんだと。期せずして子の無い人生を歩む著者が、ママ社会、世間の目、自身の老後から沖縄の墓事情まで、子がいないことで生じるあれこれを真正面から斬る!" (amazon内容紹介より) 


この本のトピックはなんだかとてもデリケートに感じられて、ヒリヒリしながら読み進めた。ホームパーティーでの専業主婦の人たちの、子どもがいない人たちへの無自覚な哀れみがにじみ出た言葉を聞いたことや、子どもがそんなに好きじゃないという酒井さんの気持ちの吐露から始まり、子育てと政治、子どもがいない女性が死んだ時にどうなるかについてのフィールドワークなど、話題は多岐に及ぶ。とりわけ、子育てと政治の話と、沖縄のトートーメーについての話、そして「1人で死ぬこと」についての話などは興味深く読んだ。

トートーメーとは、沖縄の位牌で、個人や夫婦の戒名ではなく、先祖代々の戒名が位牌札というものに記されて収められているものだそうで、いわば「集合住宅のような感じ」とのこと。本の中では、このトートーメーには、バツゼロ独身の人は入れないとか。

タイトルを一見した時は、子どもがいないことに対する個人の気持ちを吐露するエッセイなのかなと思ったのだが、そうではなく、子どもがいないと死んだ時にどうなるのかという文化人類学的なアプローチでのリサーチだとか、子育てと政治の関係だとか、社会学的な内容も多くて面白い。さらには、そこに乗せられた酒井さんの実感が、この本を読んでいるときのヒリヒリしたりグサリと刺さる感じだったりを作り出しているんだと思う。

ぼくも日々facebookやinstagramを見ていて、知人友人の子どもの写真や映像を見ていて、元気が出たりほっこりしたりすることももちろんある。この溢れる子どもの映像には「子どもがいることこそが最上の幸せで、わたし(たち)は今その最高の幸せのなかにいます」ということが現れている気がするし、ぼくはその幸せに感染したがるように日々映像を吸っている。もちろん、その裏に尋常じゃない苦労があることも、精一杯想像しながら。ただ、その一方で、それが最上の幸せなんだというイメージが滲んでくると、そうではない人生は不幸なんだという機運も滲んできている気がする。それは別に今に始まったことじゃないかもしれないけれど、SNSは幸せを可視化してその幸せへの憧れを増強する仕組みをもっていて、そうではない人生をゆるやかに、やわらかく日陰にしていくような感じがある。

酒井さんはその日陰に生きる人を「負け犬」といい、自らを「負け犬」と定義して、その日陰から物語る。「結婚して子育てをするのが幸せ」という考え方だけが正しいわけじゃない、というのは頭ではよくわかっているが、その幸せの道を歩みたいと思っている人はたくさんいるわけで、ぼくもそうだ。それが幸せだというのはよくわかる。だがこの本からは、そうではない結果になっている人たち(結婚していない、子どもがいない)が不幸かというとそうではないだろう!と静かに闘う姿勢を感じた。今を生きる人々が多くの選択肢のなかで生きられるように、闘っている本だと思った。