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2015/10/17

読み語りき、書く語りき

先日のブログ「仕事、生活、読書、運動」で書いた「読書について」、その続きで考えていることがある。



まず、「なぜ本を読むのか」という問いに対して、このあいだは「人生の参考書にしたいからだ」と書いたけれど、もう一つの答えがあるような気がしていること。「なぜ本を読むのか」、と聞かれたらぼくはもうひとつ「読んだことを他人に語りたいからだ」と答えるなぁと思う。読書にたいして「語書」もしくは「書語」って言葉はないのかな?書について語ると。

読書というのは感覚的な体験だ。理論書にしても小説にしても、ぞっとしたり楽しくなったりサクサクと納得できたりわからなくなって頭がぐるぐるしたり、露骨な、あるいは静かな高揚をもたらすものだと思う。ぼくは「体験」は言語化することで初めて「経験」になると思っている。体験はその場かぎりだけど、経験は語ることで幾度となく更新される。それでいて読書は何度も体験できる。

「1冊の本を理解したければ10回読むべし。10回読めば、その本の真意がわかる」とも思っている。10回異なる読書体験をして、10回異なる切り口から語れば、真意がわかるどころか、新しい理論もしくは新しい物語に、読み手自身がつくりかえてしまっているだろう。一冊の本に感化されるなら中途半端に鵜呑みにするな、どっぷり入っちまえ。どうせ作者にはなれないのだし、どっぷり入ったところから抜け出したころには作者でも読者でもない別の自分になっているだろうよ。

あと読書について考えているもうひとつは、目的をもって本を読むことの退屈さだ。本を読むときはなんとなく手にとって読み始めたら止まらなくなる、ということが重要だ。ときには無理して読むことで 快に到達することもあるけれど、趣味なんだからそんな無理しなくたっていい。

不思議なことに読書というのは、ある種の目的というか「◯◯についての知識を得よう」もしくは「◯◯を読んだ、という実績をつくろう」と思って読むと至極退屈なものになる。

目的なく読み始めたものから想定外のショックを受けることがある。これこそ読書の醍醐味で、期待していた知識や心象とは異なる方向に自分の心が揺り動かされ、ここで書かれている内容ってこれやあれとつながるのかもしれない!と、想像だにしていなかったリンクが頭の中で弾ける。この驚きが気持ちがいい。

さて次はなんの本を読もうかな。

*関連する記事はこれ
仕事、読書、生活、運動
自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて