ページ

2014/09/13

服をつくる、無数の選択、切実さ ー拡張するファッション展 その3

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて開催中の「拡張するファッション」展、関連企画として、先月FORM ON WORDSで服づくりのワークショップ《ファッションの時間[丸亀]:普段着》をやりに、四国へ。

FORM ON WORDS《ファッションの時間[丸亀]:普段着》
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「拡張するファッション展」 
©FORM ON WORDS

内容はこんな感じ。

====

永遠に着たいほど気に入っているけれどほころびてしまった、年齢にあわなくなってしまった、好きだけどどうにもからだにしっくりこない。《ファッション時間丸亀]:普段着》は、参加者がそうした悩みを持つをもちよって新しい普段着につくりかえるワークショップです。模様やシルエットを変えていくだけでなく、スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど、自分日常ある一瞬ため「装置」を付け加えていきます。新しく付け加える素材には、《ファッション図書館[丸亀]》で集められた、物語を持つ古着を使います。複数物語を持つが素材となって、かけがえない自分日常1シーンためかたちができあがっていきます。
(「拡張するファッション」展ウェブサイト/http://www.mimoca.org/ja/events/2014/08/20/1199/より)

====

参加者は中学生から大人まで。5日間連続のワークショップ。9月23日(火/祝)までそのアーカイヴが公開されていますよ!




人が服をまとったすがた・かたちは、無数の選択の結果


参加者(というかぼくも含めて)ほとんどが服づくりの素人。ミシンの使い方ぐらいはちょっと経験がある程度。ぼくもワークショップをしながら、「服をつくる」という行為のその片鱗を、初めて経験した。進行役でありながら、恥ずかしくも服づくりの素人であるぼくは、進行役/参加者と2つの立場でここにいた。

これから書くことは、服づくりの経験がある方からしたら、そんな基本も知らないのかよ、というレベルだし、まがりなりにもファッションブランドに関わる人間としては恥ずかしい発言の数々に違いない。でも、驚いたことなのだから、嘘をつかずに書きます。



服づくり、というか物事をつくること全てに共通することなのだと思うけど、いま、この時代、ある場所にその風景があること、それはつくる人、買う/選ぶ人、着る/使う人、といった複数の役割の、無数の選択の結果なのだ、ということ。

服をつくる過程には、人がその服をまとったすがた・かたちをもたらすために無数の選択がある。つくる人による、形、生地、色、縫い方の選択。着る人による、着方、着ていく場所の選択。あるいは服とどのようにして出会うか。

その選択の道すじが、そのムードを微細に仕立てあげていく。選択とその結果起こる出来事と相関して、やわらかさ/かたさ、重さ/軽さ、明るさ/暗さ、おかしさ/真剣さなどを綯い交ぜにした現在の人々の風景をつくっている。






ミシンを使うまでの準備と、平面が立体になること


ワークショップの中で、最初に驚くのはその工程。ぼくには服づくりというと、布を切って縫う!ぐらいのイメージしかなかった。それが実際に作業をしてみると、その部分ごとに多様な工程があり、一つの部分にもいくつもの工程がある。パターンをとり、生地にチャコペンで書き写し、布の地の目を意識しながら布を切り、縫いしろを折り曲げながらまち針で止め/仮縫いし、ミシンで丁寧に縫い、ロックミシンで端を始末する・・・・・・といういくつもの工程がある。専門家いわく「縫製がうまいひとは、ミシンの使い方が上手なのももちろんだけど、縫うまでの準備がうまいんです。」と。

そしてなにより!布という平面を立体にするわけなので、平面で切ったかたちと、できあがるかたちは違うのだ!その違いを予め把握しながら形を考え、切らなくてはならない。ミシンを使うまでに、やらなきゃいけないことがたくさんあるのだ!FORM ON WORDSの中で服づくりの専門性をもつ竹内さんはこの「工程」のボキャブラリーが豊かだ。豊かすぎて「これもできるしああもできるし」となって判断できなくて「どれがいいですか?」と参加者に委ねまくる。(そこがいい結果をもたらす)




服づくりの技術を身につけるには本で学ぶより手本を見るより、何度も繰り返しつくるのがよいと感じた。はじめはわけがわからないまま、指示を得ながらつくっていくのだけど、経験を積んでくると、どんな素材を使ってどうやって型をとり、どうやって縫いあげたら仕上がりが綺麗になるか、を考えるようになる。無数の選択の結果が服の「かたち」をもたらしていくのだということに気づく。



気づかれないディティールがつくりだす全体のムード


その「かたち」は、もちろん生地の切り方や縫い方によっても変わってくるんだけど、ものすごく些細な部分へのこだわりが全体に影響する。抽象絵画の、たった一つ新しい色を加えるだけで全体のムードを変えてしまうのと同じように。





今回のワークショップでは、日常生活における様々な場面を想像し、その1場面のためだけの服をつくっていった。スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど。日常のワンシーンも、微細に考えてみると、様々なことが浮き彫りになる。そのとき自分はどうするか、どこにどんなものをつけるか、ほんとに些細な部分だけど、服のディティールが変わっていく。あーそうなのか、服のデザイナーはこうやってほとんど人には気づかれないようなところに気を配り、雰囲気をつくっていくんだなぁ…と。



切実で小さな決意たち


とかまぁそんなふうに服作りってすげぇなと素人まるだしの驚きをおぼえながらぼくはワークショップの進行をしていたのだけど、もっともグッと来たのは参加者ひとりひとりの「切実さ」だった。今回の参加者のなかにはまったくの素人(like me)から縫い物やファッションが好きな中学生、そして服作りのプロとしての技術をもっている方までいろんなひとがいた。FORM ON WORDSのサポートはあるけれど、全員、自分が普段それを着ている姿を想像しながら自分で服をつくるわけなので、一つ一つの選択に「このやり方でかわいくなるかな?」「間違えやしないだろうか」「変ではないか」という不安がある。


そんな切実な迷いと不安を前に、一人ひとりが自らの美的直観をもって、よし、やろう、と小さく決意していく様。やったことのない初めてのこと、できあがるまでうまく想像できない未知のかたちを目指して、一つ一つ乗り越えながらやっていく様。「自分がなにやってるのかわからんくなる」とか「このやり方はあってるんだけど、もっとおもしろやりかたがあったんじゃないか」とか「これ以上手を加えていびつになるのはいやだ」とか。でもそうやっていくうちに、個人のなかにあった未知のセンスが服を通して浮き彫りになって、自分のかたちになっていくのが少しずつ見えてくる。

「ファッション」のすごく嫌いな部分は、本当はその人らしいいろんな好みがあって、それを丁寧に愛していくことはいいことなのに、そういう個性を否定するかのように「こういうのがいい」「こういうのがモテです」「こういうのは非モテです」と提案し、人々のバラバラな美的感覚の方向性を強引に束ねてしまう欺瞞的な力をもっているところだ。そういう大きな方向性にノレない人は(ぼくもそうだったが)服を選んで着ることが億劫になっていく。あるいは服のブランドや値段といったものにだけ価値を見出し、それが似合うとか似合わないとかはどうでもよくなってくる感じ、そういう中高生を何人か見ている。



今回のワークショップは、そもそも何も手本がない状態から立ち上がっていく。既製服を買わず、自分でつくるということは、そういう「ファッション」の提案する美的な方向性に頼ることができない状態に自分を追い込む。信じられるのは自分が言語化できる範囲の自分の「好み」と、それがかたちになったときに「こうなったらいいな」というおぼろげなイメージでしかない。そのおぼろげなイメージに向かって、小さな不安を乗り越えながら、そしてFORM ON WORDSのささやかな提案と他の参加者のセンスに小さく後押しされながら、つくっていくみんなの姿が勇ましく見えた。

もちろん!ワークショップとしては反省点がありちらかしてるし、ぼくももう少し日常的に服づくりしようかなとか色々考えている。しかし、永遠に着たいけれど着られなくなってしまったものをもう一度新しくするための技術を学べ、その挑戦ができるきっかけを人は求めていて、このワークショップを通してつくっていける展望が見えた。





最後に謝辞を。

ワークショップの機材・備品の準備から飲み会、そしてみなさんご自身の服づくりまで(!)一週間みっちりお付き合いくださった丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の古野さん、平山さん、林さん、宇川さん、佐藤さん、みなさんの機敏なサポートのおかげで、得難い経験をすることができました。またMIMOCAに遊びに行ける日を楽しみにしています。

そして参加者のみなさん、今回の経験がこれからの生活に役立つことを願っています。またどこかでお会いできますように!

最後の最後に、このワークショップの試作にご協力くださった、央子さん、大菅さん、お二人のお陰で見えた課題が、このワークショップに活かされました。

みなさま、本当にありがとうございました。




2014/09/08

美術展、子ども、参加 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その2

森美術館で8月31日まで開催されていた「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」展に、ぼくが関わった「子どもキャプションプロジェクト」の成果物が展示されていた。

この展覧会については以前にこちらで書いている。→「子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1


想像していた「子どもがかいたキャプション(作品解説文)」というよりは、「こどもの感想つぶやき(まとめ)」というような印象だった。ワークショップ自体も、小学校の鑑賞プログラムと一緒にやったので、そういうアウトプットになってしかるべきだと思う。

今回のワークショップに関わって、その成果物を見て思うことは、ワークショップにおいて、子どもなど参加者は「共同制作者」なのか「サービスの対象者」なのか、ということ。

子ども向けのアートのワークショップにはいろんなタイプがある。ひとつは、アーティストの手法を体験・模倣・学習する機会。彫刻、絵画、音楽などさまざまであるがアーティストの特徴的な制作の手法を模倣させるもの。あるいは、簡単でだれでもできる敷居の低い工作。持ち帰れる飾りものや日用品を簡単につくることができる。美術館で「夏のこどもフェア」的なものがそうだ。(ここには結構多くの家族連れが集まるらしく、来場者数を稼げるという事情もあるらしい)そして、日常的に行われているのが展覧会の鑑賞ツアー。学校向けのプログラムで、学年単位で来館し、子どもたちに美術館のスタッフが作品の魅力を伝えるツアーを実施するようなかたち。

他にもいろんなモノがあると思うが、その多くは、アーティストの仕事/(主催者が考える)アートの価値を子どもに対してわかりやすく翻訳してあげるための手段/サービスだと思う。つまり、子どもは「お客さん」以上の立場には成り得ない。

唯一、アーティストと子どものガチンコ制作だけが、子どもを「主体的な」参加者であると捉え、新しい作品の共同制作者という立場で迎えている。それは作品制作のために、子どもが持つ楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ感、過剰さなどが合わさった質感が、作品のコンセプトをより強いものにし、目指すべきムードを演出するために必要なものである場合に限る。

今回の「子どもキャプションプロジェクト」は、作品ではなく展覧会という一つの物語/文脈/構成に、子どもたちがその楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ、過剰さなどをもって参加することができる、可能性のあるフレームだと思った。結果的に「子どもの感想つぶやき」のまとめのようなかたちになったが、ワークショップのしつらえ次第では、子どもたちが作品の資料から物語を構成し、自分たちの目で作品を解説するプロジェクトにもできたかもしれない(ものすごく時間とコストがかかることだけれど)。

子どもが大人に対して作品の意味を翻訳するということを起こしうるのが、ワークショップの本当のポテンシャルなんだと思うが、どうか。こうした子どもと展覧会が関わるプロジェクトの、今後に期待しつつ、自分にもできることをかんがえていきたい。