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2014/03/14

終わりを遊ぶ、仕事、その後

ぼくが苦手なことの一つに「片付け」がある。あるアイデアを思いついて、ばーっと出して、とっちらかすのは得意なのだけど、そこから組み立てて綺麗に整理したり、片付けをしてもとの状態に戻したり、っていうのが下手だ。それでいつも人に迷惑をかけてしまう。

仕事というのは整理して他人の目に触れられるようにすることや、片付けをして終わらせていくことなのだと思う。アウトプットというのは物事が整理された状態であるものだし、何をいくつ終わらせ、区切っていったのか、という数えられる目安に対してお金がしはらわれるのだなぁとも。

そんな当たり前のことなのだけど、とにかく苦手なので克服しなければと思っているのか、先週、友達の家に遊びに行って、一緒にがーーっと片付けをし、押入れにうまい具合にスペースをつくり、新しい本棚をつくった。我ながら小洒落た本棚ができたとおもう。



終わらせること、については他にもいろいろ考える。たとえば今年の「放課後アートプラン」ではポストンというキャラクターをつくって子どもたちにいろんなアイデアをポストしてもらったんだけど、その役目を終えたポストンが解体されることになった。子どもたちに壊していいよ、というと、喜々としてボコボコにした。ヱヴァ破の弐号機みたいになって、最後は粉々になっていた。



壊す様子が楽しそうだったし、壊すことの意味合いが大人と全くことなっていて、これはあれだ、死体をハゲタカに捧げる鳥葬と一緒だ。人の肉が鳥に啄ばまれて空に散って行く、と考えるのと同じように、モノが子どもに遊ばれて彼らのエネルギーになっていく、と考えれば納得・・・

納得はいかない。子どもにも、慈しみとか感謝とか寂しさとかそういうものを感じてほしいと思ってしまう。が、同時に、人や物事の終わりを受け入れるときに、何かしらの儀式が必要だし、そこにはある種の「遊び」があるんだなぁという発見もあった。



世の中には子どもの工作から公共施設まで、作ることを目的につくられ、終わり方や片付け方がないままに生み出されたモノがたくさんあるみたいだ。終わりをポジティブに捉え、それが終わり、なくなった後の世界を考えるのは、想像力を必要とする。「リノベーション」も「リユース」も、一度終わりを迎えたものを新しくつかうわけだし。その終わりを面白く迎えることは創造的だ。

これまで、とにかく生み出すこと、つくることに血眼になっていたように思う。20代も後半にさしかかって思うことは、丁寧で面白い「終わり」をつくること、片付けることを仕事として据えて、これからをがんばっていこうということだ。