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2014/01/15

居場所、変化、移動

先週1週間、今年度実施している4つの児童館でのミーティング。この3ヶ月、子どもたちに「児童館でどんなことやりたい?」と聞くことを中心に、子どもたちの児童館の使い方や言語化されないニーズなどを丁寧に観察し、来年度にどんなプロジェクトをやるべきなのか、ずーっと考えてきていて、そのことを職員さんと共有した。

といっても各児童館ごとに課題は全然違っていて、その共通項をあぶりだすのは容易ではなかった。

たとえば1つの児童館は、子どもたちから「規制が多すぎる!」という不満が漏れでている。「児童館がつまんないって、最近評判だよ」という言葉も聞いた。みんなで使う場所なのだから、多少の規制というかルールはあってしかるべきだ。しかし、その調整はとっても難しい。

ここで考えるのは「居場所づくり」という言葉のルーズさだ。

そもそも「居場所」というのは、当人が心地よいと感じる場所のことであって、自分で探し、自分でつくるものだ。しかしこの「居場所づくり」という言葉をひらくと「大人が子どもに居場所をつくって与える」という意味になっている。居場所をつくって与えることと「管理」は紙一重で、その運営が管理に偏れば子どもから反発が生まれるのは当然。「居場所づくり」とは、ウラを返せば子どもの社会/政治参加のことである。丁寧な合意形成にもとづいて、みんなができるだけ自由に活動できるような空間/ルールをつくるという、大人の為政者としての手腕が問われる。

また別の児童館では「子どもたちがショッピングモール感覚で児童館を利用しているんじゃないか」という仮説がある。児童館での遊びコンテンツを消費しているだけで、自分たちでこの場所をつくる感覚というのが育まれていないのでは?というもの。

これも「子どもの社会/政治参加」ということと同じ問題だ。子どもが自分たちの意志によってこの空間が変化することを信じていないし、そんなこと望んでもいない。望んでいないのは、そうやってある物事が変化することの面白さを体験していないからだと思う。「変化への断念」「変化の成功体験の欠如」とも言えるかも知れない。「居場所」とは、利用する子どもたちの意志によってルールやコンテンツやハードウェアが変化する可能性を内包した「柔らかい空間」であるべきだと感じる。

もちろん、児童館および子どもの遊び場が、その場ごとのコンテンツを消費する"ショッピングモール化"しているという問題は別に新しいものではなく、これは解決するべきというよりも、うまく利用するほかない。「会員制度」の利用や意味付けを変えることで社会参加の体験をある種「商品化」する工夫も必要だと思う。

こんなような事を考えいてると、ひとつ「変化」というキーワードが浮かんでくる。

「変化」とは、ここに書いているような児童館という物理的な「空間の変化」だったり、ルールやコンテンツといった「内容の変化」、それにともなう子どもたちの「意志の変化」だったり、いろいろだ。「内容の変化」の場合は、児童館という場や、そこにあるモノの「意味の変化」もありうかも知れない。例えばそれはそれまで「机」だったものがあるときは「隠れ家」になったり「ステージ」になったりするようなそういう変化だ。

ただ、あるものをそのつくられた目的外で使用することは「マナーが悪い」とされる。「机は座るものではありません」というあれ。座りやすい位置にあるんだから座っちゃうのは自然な流れなのだけど、誰かが決めた「目的」がそれを制約しちゃう。話は変わるが「美術」は物と意味を解体して組み替えることをやっているし、そういうものに触れてきているので、「マナー」のあり方自体に疑問を投げかけざるを得ない。あるモノを別の目的に読み替えて使うこと、「マナー違反」と思っているモノゴトのなかにも、クリエイティビティのたねがあったりする。自由であることと、マナーを犯すことの区別をもうすこしゆるやかに考えなくてはならない。

さらに別の児童館では、子どもたちの意見を受け入れる「柔らかさ」は実現しているが、利用する子どもたちが固定化し、閉塞感をつくっている。中高生ともあれば、グループをつくり、壁をつくるものだ。これはある意味では仕方のないこととも言える。だが、排他性を回復するためには、ある種の「開かれ」というか「異質なものの介入」が前提となる必要がある。異質な他者や考え方が運ばれてくるルートの設計がいる。あるいは異質なものと出会うために、出て行くルートも必要かも知れない。これはずいぶん前から考えてる、旅路の設計のことだなぁと思う。

変化の可能性と、移動の可能性。この二つが空間を面白くしていくし、そこに居る子どもたちを育てていく要素だと思う。

「変化」と「移動」、これは2014年の、重要な意味を持つ言葉だ。