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2014/12/28

彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3

今年観た映画で、今年日本で公開された作品でもっともよかった3つをあげるならこの3作だな、という遊びをしたいと思います。

▶『her/世界でひとつの彼女』



まずは夏のはじめに有楽町で観た『her/世界でひとつの彼女』。スパイク・ジョーンズが監督脚本を手がけ、アカデミー賞脚本賞を受賞したこの作品は、人工知能をもったOS「サマンサ」と、妻と別れた孤独な中年男セオドアとの恋を描く。主演のセオドア役にホアキン・フェニックス、OSの声の出演にスカーレット・ヨハンソン、元妻役にルーニー・マーラ。

とにかく良かったのは、元妻とのデートシーンのフラッシュバックと、OSサマンサの「身体」であるスマートフォンを胸ポケットに入れてめぐるデートのシーン。その2つの対比。恋のはじまりに誰もが感じるあの擦り切れるようなスピード感で、何もかもが面白くて、お腹の底から身体が動いてしまうあの感じが、手持ちのカメラと素早いカット割で構成されている。ぼくのベストカットは、セオドアと元妻が出会った頃に、深夜の路上で、パイロンを二人でかぶってその先端でつつきあうあのカット。ほんの2秒なんだけど、それ見て泣けた。

手紙の代筆士であるというセオドアの設定にはアイデンティティの複数性が描かれ、声だけでのセックスシーンでは肉体を離れた肉感が表れてる。画面が真っ暗になって、声だけで交わす性愛の切迫感のすごさ。アーケイドファイアの曲も、Karen Oの主題歌を歌うところも、衣装も、川内倫子にインスパイアされたという画面の淡い光も、とにかく最高だった。

そして、「私もあなたも誰にでもなれちゃうから誰でもない」という現代的な孤独と「それでも誰かを好きになった過去のことは自分しか知らないじゃん!それって自分だけの歴史だしそれを肯定していいじゃん!」という切々としたラストの、元妻への「手紙」。

今年FORM ON WORDSで音声ガイドによる演出のショーというのをつくったこともあるし、付き合う前の今の彼女と観に行ったというのもあって、今年の夏を印象づける思い出の作品になった。


▶『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』




続いて9月に新宿武蔵野館でみた『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』。フランスアルプス山脈に建つ伝説的な修道院の、ドキュメンタリー。1984年の申請時には「いまはまだはやい」と断られ、16年後に「準備がととのった」という返信があった。撮影の条件は、照明なし、ナレーションなし、撮影には監督のみ、というもの。さらに撮影と編集に5年を費やした。かかった時間の途方もない重み。

この映画の感想は以前にブログで書いたので割愛するけど、この「沈黙」というのは単なる無音のことではなく、普段聞こえない音を聞くということ、生きる仕草の音を聞け!ということなのだという衝撃を受けた作品。3時間の切実な生と祈りの仕草の音は、荘厳でありながらあまりにも日常で、隣合わせで、聞こえてこない呼吸に耳を傾けろ、という素晴らしい作品だった。



▶『6歳のボクが、大人になるまで』

そして今年の文句なしベストになってしまったのは先日日比谷シャンテで観た『6歳のボクが、大人になるまで』。『ビフォア・サンライズ』『スクール・オブ・ロック』などのリチャード・リンクレイター監督が、12年かけて6歳の少年が18歳になるまでの物語を4人の家族を同じ役者で演じ続けたというすさまじい作品である。超派手展開があるわけではない、ささやかで、どうにもこうにもうまくいかなくて、なんとなく幸せってこういうのなのかなあみたいな、無数の事柄が通り過ぎて行く12年。

正直、この予告編を観ずに今やってる劇場に直行するのをオススメします。

すげえ!と思ったのが3つある。

ひとつは、主人公メイソンの6歳から18歳までのシナリオと、それを演じるエラー・コルトレーンの実人生が相互に影響しあってるんだろうなぁ、、、というリアリテイ。人の人生を描くとき、役者は演技をするけれど、演技を超えた彼の実人生の変化が、如実に画面に現れている!!!

あと、離婚した実父がポテトを食べながら性の話を高校生の娘とするときに、ふいに現れる女性。その人は父がちょっと気になってる感のある人で、その様子をみて、親父を小馬鹿にしたように、それでいて安心したように、他者として父を眼差しているメイソン(主人公)の表情を見て、「なんだその顔は!」と慌てていう父。そのワンシーンにぼくは泣いた。他者としての家族、役割を演じ合う家族。恋人を持つ父が、ふいに父という役割を脱いだ、一人の男に見えた瞬間にぼくはたまらなく愛おしくなって、涙が出た。

そして、ネタバレになるから言えないけど、ラストのお母さんのあのセリフ。12年、演じ続けた。映画の中でも外でも、母親役をやった、、、というこの事実がドンとくる。

ぼくはこのラストはもちろん、その余韻をひくようにエンドクレジットでも、ああこれだけの人が12年の月日を過ごしたのか、映画/フィクションの中で、あるいは撮影や制作の現場/リアルの中で…と思ったらまた涙が出た。ようは3回泣いた。

児童館に関わって8年。小学校1年生だった子が、もうすぐ高校生だ。ぼくもまだ大人になったといえんのか、いえないだろう、という感じだけど、自分の姿と、児童館で出会った子どもたちの姿も重ねていたのは言うまでもない。





あとなんだろう、『リアリティのダンス』もすごくよかったし、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』も超絶楽しかった。あと『バルフィ 人生に歌えば』も『her』にならぶ恋のフラッシュバック/カット割りでかなりよかった。

それから今年公開じゃないけど8月に目黒シネマで観た『この空の花 長岡花火物語』は、生涯で一番泣いた映画だった。『この空の花』『長岡映画』と、いくつものタイトルがスクリーンに写されただけで、この映画の持つ複層性を感じて涙腺が開き、そのあとはもう終始涙流しっぱなしで、思わずそのあと長岡に旅行に行ったほどだった。なんだろう、映画を観て泣くっていうのがクセなのかな…。

今年は、去年よりもたくさんいい映画に出会った気がする。また来年出会う映画も、楽しみだ。






2014/12/13

カーテン、役割、見立ての遊び

今日は石神井児童館のカーテンの模様をつくるワークショップ。午前中カーテンの土台を塗って、午後はステンシルのやり方を説明して、子どもたちとワーク。模様というものが同じものの繰り返し、リズムでできていること、そのアレンジでどんなものでも模様になるということが次第にわかってきて、ボリュームたっぷりのテキスタイルをつくることができた。かわいい。



この日1日作業をしてくれていたSちゃんは、5時を回ってみんなが帰って、参加する小学生がSちゃん一人になってから、俄然作業にスピードがでてきて、どんどん模様を付け足していく。スタッフの金子さんとの連携もにもリズムが出てくる。BGMは並木君がかけくれていたKiNKの『Leko』という曲で、このミニマルっぷりがさらに加速させていく。最後にはパレットを洗ったりカーテンをたたんだり、率先して片付けをしてくれた。


そこにいる大人たちとの間の、先生/生徒という役割の壁を超えて、共に何かをつくる親密な相手になっていくこの感じに、久しぶりに出会った。特別なY時だな、とあの作品のことを想い出す。

ワークショップが「サービスの提供者」と「参加者/消費者」という建前を崩せない限り、「参加者/消費者」は個人的な欲求を満足させたり、個人的に取得したい技術を学び取るだけで終わりになってしまう。そうではなくて、提供者と参加者の垣根を超えて、何かとても面白くていいもののために一緒につくろうとしていくこと、個人の目的を充足させるとともに、そこにいる人たちの共同体の集合的目的を目指していく。そんな状況がつくられるには何かやっぱり条件があるはずで、そのことはもう少し時間をかけて考えたい。



家に帰ってきてからすこしゴロゴロしながら読んでいた1981年の高輪美術館・西武美術館で行われた『マルセル・デュシャン展』の図録。井上ひさし、澁澤龍彦、東野芳明、ジョン・ケージなどそうそうたるメンバーの執筆のこれは本当におもしろくて、「解決はない、なぜなら問題がないのだから」という謎かけと、人間って機械みたいで面白いよね、みたいなデュシャンのフェティッシュな感じを読み解ける。

見立てによる壮大な遊びの仕掛けを作り出しているデュシャンの作品は、「遊び」というものの宙ぶらりんな感じと、「アートは人の心を豊かにする」「アートは自己表現力を養う」みたいなつまんない美術教育のクリシェに対して「本当にそうなの?」と問いなおす痛快な批判になっている。

遊び、仕事、アート、見立て、子ども、グルーヴ・・・今日は1日面白かった。




2014/12/04

民謡、淡く深いギター、身体の変化

今日、vinylsoyuzの清宮凌一さんにお誘いいただいて、木津茂里さんという民謡歌手・太鼓奏者のライヴに行ってきた。YouTubeで見たことがあるぐらいだったのだけど、ライヴは想像を超えてすばらしくて、ほんとによかった。 木津さんの声の響きはもちろんだし、津軽三味線も三線も最高なんだけど、それに合わせている青柳拓次さんのギターの音がなによりよかった。ギターが鳴るだけで、こんなにも淡く深く響くんだ・・・。聞き慣れた『炭坑節』に青柳さんのギターの音が重なると、節が前景化して、その背景に淡く深みのあるフォーキーな響きが流れる。節とフォークと、2つ(よりもっと多く)の情景が重なってノスタルジックな未視感を味わう。 音楽もアートも、いまここでいろんなものごとが重なってるんだ!そしてそれがおれのあたまんなかでぐるぐるまわって穴を開けようとしてるんだ!という興奮作用みたいなものがあって、それはやっぱり人の心をアゲる。そして、日常の感覚と違うその興奮は、おれはこんなにも別の感覚で生きることができるんだ、というオルタナティヴを提示する。 「音楽やアートが日常を豊かにする」というのは、いろんな感覚、いろんな状態に、自分の身体が変わるということを学びうる手立てだからなのかもしれないと思う。

2014/11/17

キュレーションと子どもの施設

『キュレーション 「現代アート」をつくったキュレーターたち』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著、村上華子訳)を読んでる。そしてこのインタビュー動画がすこぶるシンプルで面白い。 現代アートの展覧会を企画するっていうことと、児童館を運営するということは、それは同時代性と変化の空間であるということでやっぱり通じているような気がしていて、それが何なのかわかなくてもやもやする。アートが多様な文脈の可能性を内包しているように、子どもたちもそうである。子どもこそアートだ!なんて言えないけれど、方向性は同じだと、やっぱり思う。

この本の中で、キュレーターは「メタ・アーティスト」なのでは?という見方も提示されている。アーティストの作品を、展覧会という大きな絵画の構成要素として扱う、というような。しかしそれでは面白くない。展覧会は多元的で、今見たものがつぎの瞬間にはひっくり返るような、絶えず変化するような、そういう場であってほしいと思う。

同様に教育者・保育者が「子どもってこうだよね!」「無限の可能性を秘めてるよね!」みたいなクリシェのために子どもが描いた絵や子どもの行為を並べ立てるのはおもしろくない。子どもの複雑さや子どもを取り巻く環境/大人の関わり方を批評的に考える場としての機能もまた、持ち合わせている。同時に子ども自身が次々といろんな表現/他者との関わり方を学習する場としても。











2014/11/11

速度をあげる仕草、突き上げるキック、ポンコツの選択 ― 服の記憶展 その2

2014年11月8日(土)・9日(日)、FORM ON WORDSの新作ファッションショー《ノーテーション》をアーツ前橋で開催した。


前橋に暮らす人々へのリサーチを積み重ね、生まれて初めて脚本のようなものを書き、なんとか展示を生み出してから1ヶ月。FAIFAIの野上絹代さんによる演出、Open Reel Ensembleの佐藤公俊さん・難波卓己さんによる音楽、Nakajimasによる映像がついてファッションショーが開催された。

参加者/モデルは本番の10分前に集まり、簡単な説明をうけたあと音声ガイドでリアルタイムに振り付けされていく。前橋に生きる5人の仕草を。繰り返される仕草は次第にその速度を上げ、最後はダンスになっていく。最終回は、絹代さんの誕生日プレゼントで渡した花束の花びらが舞った。



ハサミの音、ミシンの音、アイロンのスチームなどがその場で録音/再生され、次第に速度を上げ、最後はBPM120のキックが突き上げるようにランウェイを揺らす。壁面には、その場で撮影されている映像がプロジェクションされている。参加者のポーズ/仕草がスローパンで映しだされると、まるで生きる彫刻のようだった。



とにかくゲストの仕事のクオリティの高さにぼくらはただ驚くばかりで、今回も水戸芸術館の時と同じクルーだったけれど、かなりパワーアップしたことを実感した。

しかしFOWとしては反省点だらけだし、なによりこのショーを踏まえて今後どう展開するか、その選択が問われていることはみんな自負している。あとは、FOWがこのショーをどういう文脈に位置づけるかっていう戦略が欠けていた。この文脈にならコミットしたい!と強く思わせる何か、が足りなかった。それはFOW自身の問題でもあるし、これは「服の記憶」展という展覧会自体の課題でもあるように思う。

ぼくたちFOWは今、これまで断続的にしかやってこなかった「服を作って売る」ということを主軸に活動を編み直さなければならない時期に来ている。そこに今回のようなプレゼンテーションを、どのように編みこんでいくか。



今回のショーの制作も、きつかったけどとにかく笑いが耐えなくて、濱くんはドM扱いだし、竹内さんは寝てたり信じられない遅刻をかましたりしつつもみんなから愛されてるし、ぼくは気が回らないただのゆとりだし、まあとにかくポンコツ感のあるFOWメンバーを、スーパースキルフルなメンバーが支えてくれていました。

参加してくださったみなさん、絹代さん、佐藤さん、難波さん、中島くん、ユウさん、そしてのろさん、みちゅ、そしてアーツ前橋の学芸員のみなさん。当たり前すぎることですが、皆さんの力なくして、このショーの成功はありえませんでした。ありがとうございました。

これからはこのポンコツ感の良さを伸ばしつつ、同じ失敗は二度としないようにして、ゲラゲラ笑いながらつくっていきたいとそう思っています。

2014/11/01

FORM ON WORDS《ノーテーション》

新作ファッションショー《ノーテーション》
2014年11月8日(土)・9日(日)

他者の人生を再生する衣服

前橋に生きる5人の物語を参加者が準備なしに踊る




時間:各日 13:00〜/15:00〜/17:00〜( 各回20分程度)
会場:アーツ前橋 (〒371-0022 群馬県前橋市千代田町5-1-16)
   企画展「服の記憶 私の服は誰のもの?」展 内

FORM ON WORDSは、服にまつわる人々の「ことば」から新しい「かたち」を提案するファッションブランドである。
今回アーツ前橋で開催されている「服の記憶 私の服は誰のもの?」展では、前橋市に暮らす22歳から94歳の5人の男女をモデルに、彼らの人生を12の〈作業〉に集約し、彼らの人生の〈作業着〉を制作した。
今回のファッションショーでは、一般の参加者がモデルの人生を写しとった衣服を着て、音声ガイドでのリアルタイムの振付によって、稽古なしにこの5人の人生を演じる。
同時に、ミシンやハサミなどの作業音をリアルタイムで録音し、振付に合わせて再生することで音楽が演奏される。
人の人生の〈作業〉を写しとった服が、その〈作業〉をまた別の他者に写していく。
人から人へ、生きられた経験を伝える楽譜としての衣服を提示する。

演出・構成:野上絹代(FAIFAI)
音楽:Kimitoshi Sato + Takumi Namba(from Open Reel Ensemble)
映像:中島唱太 + Yu Nakajima
写真:湯浅亨

*ショーの鑑賞・参加には展覧会チケットが必要です。

《今回のファッションショーではモデルの方を募集しております》

モデルの経験は問いません。
事前の練習などはなく、当日15分前に集合し、その場で新作コレクションを身につけ、イヤホンから流れる音声ガイドに従って動いていくことでショーが成立します。新作をより深く感じることが出来る、特別な機会です。ふるってご応募ください。

定員:各回5名
対象:中学生以上、経験などは問いません。
集合時間:各回15分前
参加費:無料(要観覧券)
参加方法:事前申込制(先着順)
住所、氏名、年齢、電話番号、参加希望回を添えてお電話にてお申込みください。
電話窓口:027-230-1144(アーツ前橋)

お問い合わせ

[ショーの参加、開館時間、取材申し込みはこちら]
アーツ前橋
電  話:027-230-1144
メール:artsmaebashi@city.maebashi.gunma.jp

[ブランドに関する問い合わせはこちら]
FORM ON WORDS
電 話:080-1207-1395(担当:臼井隆志)
住 所:〒151-0001 東京都渋谷区神宮前6-51-11 
    原宿ニューロイヤルマンション 601
メール:info@formonwords.com

2014/10/27

空間を変える、仕事のトレーニング ー 石神井児童館工作室のリノベーションについて その1

先週一週間をかけて、昨年度から企んできた石神井児童館の改修工事を終わらせた。遠藤幹子さんに設計をお願いし、棟梁こと北條さんの現場指揮に従いながらアージスタッフ4人とがんばってこしらえた。



職員さんと相談し、とにかく不要なものを処分してもらった。断捨離。

バール(釘抜きのこと)とトンカチで棚を解体し、壁紙をはがして黒板塗料を塗った。

天井のカーテンレールと、備え付けの棚を白く塗って存在感を消した。

解体した棚を建具にして、これまたカラーの黒板塗料で塗装した扉を取り付けた。

棚をばらして有孔ボードを取り付け、展示したり自由な工作材料を並べられる場所をつくった。












毎日リポビタンDを飲みながら、丸ノコで吹き上がるおがくずに苦しみながら、和気あいあいと作業をすることができた。作業中に食べたドーナツが、その糖分が脳髄に染みわたる感じがして、とにかくおいしかった。あと、作業後に食べたごま油と塩で食べるレバテキも。



さてところで、今回のプロジェクトは施工をして終わりではなく、新しい空間をつくることで新しいプログラムを生成するのが目的だ。それは、子どもたちが職員のサポートを得ながら、自らここでの活動をつくっていくことだ。活動はむしろ、これからスタートする。これまで子どもの自治だ何だと言っていたけれど、実は「仕事」ということともつながってくるんじゃないかと思う。

超当たり前のことだけど、建築家は「人がこれから生きていく場所」をいくつもつくっていく。遠藤さんと仕事をさせてもらって、愛情と気遣いを尽くし、驚かしたり楽しませたりすることが絶えず生まれるような場所を次々と形にしていくなんて、建築家とはなんて大変で楽しい仕事なのだろうと改めて感動した。

「仕事」というのは言われたことを言われたままにこなすのではなく、「こうしたほうが(自分の生活が/世界が)面白くなるのに」というアイデアをリアライズする技術なんだなと思う。世界のお金の流れの中で、周囲の人に相談し、協力を頼み、自分のアイデアをちょっとずつでも加えながら、具体的に変化を起こす技術というか。

最近親しい人から「心理士」という仕事の話を聞いている。そこで思うのは、どんな仕事にも創意工夫が必要だというこれも当たり前のことだ。カウンセリングって人を癒やすちょっと神秘的な仕事に見えるが、その実務はクライアントの親や学校や機関とのつなぎ役だ。。あるいはクライントを守るために人とのつながりを断つ、小さな政治的な仕事だ。人と人との間を何度も縫ったり切ったりすることで、クライアントの生活を少しでもよく、軽くしていこうとする、心理士一人ひとりに創意工夫が求められる、難しい仕事だ。

今読んでいるハンス・ウルリッヒ・オブリストの『キュレーション A brief History of curating』を通しても、キュレーターがアーティストやビルの管理人などと協力して、創意工夫していくことで新しい美のタームがつくられてきたことを感じる。

でも、よく考えてみると、ぼくらは、自分でアイデアを出してそれを人と協力してかたちにしていくトレーニングを、子どもの頃から積んできているだろうか。そしてぼくは今でもそのトレーニングを怠ってやしないだろうか?子どもたちと一緒にそのトレーニングを積んでいける場所を残り半年でつくっていくっていうのが、なんかぼくにとって切実な動機なんじゃないかという気がしてきている。

そのトレーニングを発展させ、お金の流れの中に身を投じることが、仕事をする、ということなんだなと思う。

そういえば、ぼくが「アーティスト・イン・児童館」を始めたそもそもの動機は、子どもたちが面白いことに出会う場所をつくりたいと思ったことだった。最高のハプニングが起こるのを待つための場所を作りたいとおもったことだった。しかし、そのためには、お金の流れに乗る必要があったことを痛感しているのが現在だ。ぼくにはまだまだそれができていなくて、お金の流れが見えていないことが最大の欠点だ。そして、その欠点を克服するには時間がかかる。アイデアを形にする修練と、お金の流れの中に身をおくことをしていく20代後半にしていきたいなと思った先週であった。


2014/10/11

前橋、リサーチ、夜の恋慕 ー服の記憶展について その1

昨日から始まったアーツ前橋での「服の記憶」展。展覧会についてもちょこちょこアップしていこうと思うのですが、その前日譚としてリサーチの過程をちょこちょこ書いていきたいと思っています。これはオープニング明けて眠たい頭をかきまぜながら、高崎線にのって書いています。

今回の新作では、前橋に住むいろんな人に話を聞いて、面白いなとおもった5人の方に協力をいただいてその人のための服をつくり、展覧会ではその人の人生経験ごと試着する、というもの。他人になることはできないが、他人の人生に袖を通すような体験を服はさせられるんじゃないの〜というところが今回のキモ。

2週間前、今回の新作のために必須である夜の前橋リサーチということで、21時から飲み屋をほっつき歩き始める。前橋は昼間のかんさんとした姿とうってかわって週末の夜はとりわけ元気だ。

目的のスナックへ。こういうところ、遊び慣れていないんで、、、とドギマギしつつビールを飲むと、さっきまでリンパマッサージ30分コースで身体をごりごりにほぐされている竹内さんは二杯目でもう絶好調な感じになって、服の話を陽気にしている。とはいえ、普通にママからたくさんの話を聞くことができた。

スナックと児童館はよく似ている。お店の人がいろんな人の席に入ったり抜けたりしつつ勘定や洗い物バースデーケーキの準備はボトルやグラスの片付けをテキパキとする女性たちの振る舞いはさながら児童館の職員さんだ。



とはいえ、ここは大人の空間だ。ぎゃっはっは!じゃあ騎乗位中だしが最高ってわけ?エロいなー!エロい女だなー!みたいな声が聞こえてきて、ギョッとする。かと思えば、サンダルと短パン姿のラフな格好で、というか寝癖で、カウンターで好きなものの話をしまくってる感じの人もいるし、のど自慢だ〜!と言わんばかりに渋い歌声響かす人もいる。
人々の面白い様子が見える。ん〜、こういうところは男性が甘えにくる空間なのかもなあとも思う。擬似的な母子関係、擬似的な恋愛関係を求めに来ているようにも見える。ぼく自身もママにいろんな話を聞いてもらって、いい気になっていた。

スナックでひとしきり話を聞いたのち、夜の街をあるきながら、そもそもスナックとキャバクラってどう違うんでしょうねと、竹内さんが言い始める。行ったことあります?いや、ないっす。行ってみる?比較のために。ほあーまじすか?って会話しながら歩いていたら、どう?そこのスナック、若い子もいるよ、60分4000円でビール焼酎ソフトドリンク、と近寄ってくるおじいちゃんをスルーして歩いてて思ったけど、前橋の千代田町はとにかく夜になるとわっと人出が多くて、昼間の少ない人通りの様相が変わり、キャッチの人たちで街が賑わう。

どうすかどうすか!アニキアニキ!あのーーーーうちの話も聞いてもらっていいっすか!いやぁ、もううちに決めましょ!はい!ほい!

キャッチにも作法があって、4つぐらいの店舗に囲まれたんだけど、一つの店舗が説明してるときは、別の店舗は値段や条件のことを口にしない、というのがある。アニキアニキーー!という声は出し続ける。

はー、そうやって勧誘するもんなんすねー、アーツ前橋って知ってます?あそこで今度展示するために来てるんですよ、ぜひ来てください、へー!そうなんですか!私娘がいて娘が洋服大好きなんですよー、娘と行きます!ぜひぜひ、いろんな洋服が観れて楽しいですよ!とかいいながら、何してんのかよくわかんなくなる。

んで、結局一番若くて元気なお兄さんがキャッチしてたところにいくことにして、人生で初めてキャバクラに入店した。20分ごとに女の子が入れ替わっていくシステムで、2人で行ったから6人の人に出会ったんだけど、みんなに「服の記憶」展の説明をして終わった感じだった。一人だけ、ニゴーとかでてるやつですよね!知ってるー!という人がいた。

んでぼくはというとなんの悪気もなく、いまスナックからのキャバクラに来てるよーと彼女にLINEをしたら、「なに。」とだけ返ってきたのでギョッとして酔いが覚める。腕組みをしながらあーだこーだ考えてどう説明したらいいかを考えていると、ほらほら早く返事しなよー!と隣に座った子が身を乗り出してぼくのiPhoneをぽんぽん触ってLINEを開いて返事を打とうとしはじめたので、これまたギョッとして身を引く。

竹内さんには、おい、キャバクラきて腕くんでんじゃねーよ!とツッコミくらいながら、ぼくはめったなことで怒らない彼女がイラっとしてるのを感じて焦りつつ、酔っ払った手で返事を打つ。

まわりのお客さんを見みると、肩を組んでカラオケを歌っている二人組がいる。声の張り上げ方とか、たまにカウントダウンTVとか見るといるキャバ嬢っぽい歌手の人がいて、ああこの歌い方はキャバクラ的な歌い方なのかもとか考える。

別の席では日サロで焼いた肌がテカる血の気の多そうなワイシャツの男性3人組が、女子たち相手にどんどこどんどこ盛り上げている。さながら映画『ソーシャルネットワーク』のジャンスティン・ティンバーレイク。なるほどこれはスポーツ感覚なのか。いかに女子を楽しませられるか、自分の雄々しさを試す遊びなのか。ガチの求愛ではなく、求愛の遊びとでもいうか、そんなゴリラ感があった。

しかしま〜、何を求めていったわけでもないが、この遊び方はぼくたちには合わなかったみたいだ。店を出た後の感じは茹ですぎた夏野菜を齧ったときみたいだ。水っぽくて味も食感も残念になっちゃった茹で過ぎのトウモロコシみたいな。

いやあこりゃあなんにも残らねえや、彼女には怒られるしよーとか言いながら、キャバクラをでて、むちゃくちゃ美人な女将さんがやってる鰻屋さんでうなぎの蒲焼を食べよう、って話になって、キモ焼きをつまみに飲んでるお客さんからビールを一本ご馳走になる。なんでも女将さんの高校の同級生かなにかで、高崎から来て月に一度こうやって晩酌するんだとか。今年で52歳って言ってたかなぁ。

ぼくはどうにも彼が女将さんへの恋心をずーっと持ってんのかなぁと思ってしまって、ああ慕情とか思ってたんだけど、翌朝竹内さんに話したら、いや、あれはただ仲良いだけに決まってますよ、というのでさすがフラれたことのない男は違いあると思って負けた

ルーザーな自分には彼の慕情がなんとなくわかって、実らないけどしぶとくなっちゃう男子の恋心に、しっとり照れる女将さんの顔の艶っぽさをみて、なんとなくほっとする。
夜の世界はこんなふうに、その土地の人たちのいろんな求愛がマーケットに乗って動いている。そのグルーヴの中で遊びながら、いろんなかたちの求愛の渦を食らうのは楽しかった。

アーツ前橋での「服の記憶」展、次回はまた別のリサーチの様子を書きます。

2014/09/16

仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』



新宿シネマカリテにて、ずっと観たかった『大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院』を観る。

監督が最初に撮影を依頼してから16年後に「準備は整った」と許諾を得、撮影は6ヶ月修道士として迎え入れられて、ともに生活しながら撮ったという。とはいえ、1日に1時間程度しか撮ることができず、6ヶ月間でおよそ120時間。そのまま上映したいぐらいだっただろうに、その映像を169分に編集した。2006年公開の本作は、日本公開までにさらに8年かかった。

「沈黙」とは完全な無音ではない。この映画は終始、聞いたことのあるようでない音への驚きに満ちていた。そして仕草の美しさ。というか仕草の美しさとは、仕草の「音」の美しさなのかと、こんなにも思ったことはない。

例えば、コップを机に置くときのムード。コトリと静かにおくか、ゴンと思いやりのない音をたてるか。日々の仕草のムードを演出してるのは実は音なんだなと。

修道士たちの仕草は、幾度と無く繰り返され、無駄を省き、丁寧さを練り込んだ仕草。たとえば、青い服をきた老修道士が畑の土をぶあつく覆う雪をスコップですくう場面。土の表面を削らないように、雪だけをすくうように、丁寧にスコップを雪に差し込んでいくんだけど、うっかりほんの少しだけ土をすくってしまったとき、またスコップでその土だけをすくって畑に放ったのだ。また、靴を修理するとき、靴底と革を貼り付けるボンドを塗り、息を吹いて少し乾かすのだが、その息を吹きかけるリズムと長さ、丁寧さ!

ていうか、そもそもなんで修道院はあるのか、修道院のもろもろの行為の目的はなんなのかって考えたとき、最近読んだ本の一節を思い出した。

行動する者は勝利したいと欲する者だ。勝利する者は他者に苦しみをもたらす。行動を断念することだけが、幸福と平穏への唯一の方途なのだという憂愁。

でも、行動しないで生きるなんて無理だよなぁ。呼吸するし、のどが渇いたら水飲むし、お腹すいたら食べる。家がほしい、恋人がほしい、とか欲求は高まる。もしかしたら修道士という人たちは、すべての行動とそれによってもたらされる勝利を(可能な限り)断念しようとしているのだろうか。そしてそれらの仕草に祈りを練り込んで生きていこうとしている人たちなのかもしれない。

そしてそこには希望が漂う。神に近づける、慈愛に満ちた人間として生を終える。その希望に悲哀を見てしまうのはぼくが俗世の人間だからだろうなとか。映画をみるぼくらとは別の生き方を選んでいる人たちの姿は、人間が他者を苦しめることなく共に慈しみ、あわよくば楽しみ生きるには、人間の魂はどうあるべきかを静かに問いかけてくる。

ちなみに、ボンドで修理した靴は、週に一度だけ遊びにでかけるときに雪山で履く。スキーのように滑って遊ぶ修道士達の様に、遊びとはこんなにも瞬間の喜びなのか、と。他者とともにいかに生きるかという魂への問いから、一瞬だけ解き放たれる瞬間が遊びの美しさなのか、と。

まーとにかく約三時間、耳を澄ますべき映画。日々の自分の仕草の音をもう一度聞いてみようと思う。

2014/09/13

服をつくる、無数の選択、切実さ ー拡張するファッション展 その3

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて開催中の「拡張するファッション」展、関連企画として、先月FORM ON WORDSで服づくりのワークショップ《ファッションの時間[丸亀]:普段着》をやりに、四国へ。

FORM ON WORDS《ファッションの時間[丸亀]:普段着》
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「拡張するファッション展」 
©FORM ON WORDS

内容はこんな感じ。

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永遠に着たいほど気に入っているけれどほころびてしまった、年齢にあわなくなってしまった、好きだけどどうにもからだにしっくりこない。《ファッション時間丸亀]:普段着》は、参加者がそうした悩みを持つをもちよって新しい普段着につくりかえるワークショップです。模様やシルエットを変えていくだけでなく、スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど、自分日常ある一瞬ため「装置」を付け加えていきます。新しく付け加える素材には、《ファッション図書館[丸亀]》で集められた、物語を持つ古着を使います。複数物語を持つが素材となって、かけがえない自分日常1シーンためかたちができあがっていきます。
(「拡張するファッション」展ウェブサイト/http://www.mimoca.org/ja/events/2014/08/20/1199/より)

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参加者は中学生から大人まで。5日間連続のワークショップ。9月23日(火/祝)までそのアーカイヴが公開されていますよ!




人が服をまとったすがた・かたちは、無数の選択の結果


参加者(というかぼくも含めて)ほとんどが服づくりの素人。ミシンの使い方ぐらいはちょっと経験がある程度。ぼくもワークショップをしながら、「服をつくる」という行為のその片鱗を、初めて経験した。進行役でありながら、恥ずかしくも服づくりの素人であるぼくは、進行役/参加者と2つの立場でここにいた。

これから書くことは、服づくりの経験がある方からしたら、そんな基本も知らないのかよ、というレベルだし、まがりなりにもファッションブランドに関わる人間としては恥ずかしい発言の数々に違いない。でも、驚いたことなのだから、嘘をつかずに書きます。



服づくり、というか物事をつくること全てに共通することなのだと思うけど、いま、この時代、ある場所にその風景があること、それはつくる人、買う/選ぶ人、着る/使う人、といった複数の役割の、無数の選択の結果なのだ、ということ。

服をつくる過程には、人がその服をまとったすがた・かたちをもたらすために無数の選択がある。つくる人による、形、生地、色、縫い方の選択。着る人による、着方、着ていく場所の選択。あるいは服とどのようにして出会うか。

その選択の道すじが、そのムードを微細に仕立てあげていく。選択とその結果起こる出来事と相関して、やわらかさ/かたさ、重さ/軽さ、明るさ/暗さ、おかしさ/真剣さなどを綯い交ぜにした現在の人々の風景をつくっている。






ミシンを使うまでの準備と、平面が立体になること


ワークショップの中で、最初に驚くのはその工程。ぼくには服づくりというと、布を切って縫う!ぐらいのイメージしかなかった。それが実際に作業をしてみると、その部分ごとに多様な工程があり、一つの部分にもいくつもの工程がある。パターンをとり、生地にチャコペンで書き写し、布の地の目を意識しながら布を切り、縫いしろを折り曲げながらまち針で止め/仮縫いし、ミシンで丁寧に縫い、ロックミシンで端を始末する・・・・・・といういくつもの工程がある。専門家いわく「縫製がうまいひとは、ミシンの使い方が上手なのももちろんだけど、縫うまでの準備がうまいんです。」と。

そしてなにより!布という平面を立体にするわけなので、平面で切ったかたちと、できあがるかたちは違うのだ!その違いを予め把握しながら形を考え、切らなくてはならない。ミシンを使うまでに、やらなきゃいけないことがたくさんあるのだ!FORM ON WORDSの中で服づくりの専門性をもつ竹内さんはこの「工程」のボキャブラリーが豊かだ。豊かすぎて「これもできるしああもできるし」となって判断できなくて「どれがいいですか?」と参加者に委ねまくる。(そこがいい結果をもたらす)




服づくりの技術を身につけるには本で学ぶより手本を見るより、何度も繰り返しつくるのがよいと感じた。はじめはわけがわからないまま、指示を得ながらつくっていくのだけど、経験を積んでくると、どんな素材を使ってどうやって型をとり、どうやって縫いあげたら仕上がりが綺麗になるか、を考えるようになる。無数の選択の結果が服の「かたち」をもたらしていくのだということに気づく。



気づかれないディティールがつくりだす全体のムード


その「かたち」は、もちろん生地の切り方や縫い方によっても変わってくるんだけど、ものすごく些細な部分へのこだわりが全体に影響する。抽象絵画の、たった一つ新しい色を加えるだけで全体のムードを変えてしまうのと同じように。





今回のワークショップでは、日常生活における様々な場面を想像し、その1場面のためだけの服をつくっていった。スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど。日常のワンシーンも、微細に考えてみると、様々なことが浮き彫りになる。そのとき自分はどうするか、どこにどんなものをつけるか、ほんとに些細な部分だけど、服のディティールが変わっていく。あーそうなのか、服のデザイナーはこうやってほとんど人には気づかれないようなところに気を配り、雰囲気をつくっていくんだなぁ…と。



切実で小さな決意たち


とかまぁそんなふうに服作りってすげぇなと素人まるだしの驚きをおぼえながらぼくはワークショップの進行をしていたのだけど、もっともグッと来たのは参加者ひとりひとりの「切実さ」だった。今回の参加者のなかにはまったくの素人(like me)から縫い物やファッションが好きな中学生、そして服作りのプロとしての技術をもっている方までいろんなひとがいた。FORM ON WORDSのサポートはあるけれど、全員、自分が普段それを着ている姿を想像しながら自分で服をつくるわけなので、一つ一つの選択に「このやり方でかわいくなるかな?」「間違えやしないだろうか」「変ではないか」という不安がある。


そんな切実な迷いと不安を前に、一人ひとりが自らの美的直観をもって、よし、やろう、と小さく決意していく様。やったことのない初めてのこと、できあがるまでうまく想像できない未知のかたちを目指して、一つ一つ乗り越えながらやっていく様。「自分がなにやってるのかわからんくなる」とか「このやり方はあってるんだけど、もっとおもしろやりかたがあったんじゃないか」とか「これ以上手を加えていびつになるのはいやだ」とか。でもそうやっていくうちに、個人のなかにあった未知のセンスが服を通して浮き彫りになって、自分のかたちになっていくのが少しずつ見えてくる。

「ファッション」のすごく嫌いな部分は、本当はその人らしいいろんな好みがあって、それを丁寧に愛していくことはいいことなのに、そういう個性を否定するかのように「こういうのがいい」「こういうのがモテです」「こういうのは非モテです」と提案し、人々のバラバラな美的感覚の方向性を強引に束ねてしまう欺瞞的な力をもっているところだ。そういう大きな方向性にノレない人は(ぼくもそうだったが)服を選んで着ることが億劫になっていく。あるいは服のブランドや値段といったものにだけ価値を見出し、それが似合うとか似合わないとかはどうでもよくなってくる感じ、そういう中高生を何人か見ている。



今回のワークショップは、そもそも何も手本がない状態から立ち上がっていく。既製服を買わず、自分でつくるということは、そういう「ファッション」の提案する美的な方向性に頼ることができない状態に自分を追い込む。信じられるのは自分が言語化できる範囲の自分の「好み」と、それがかたちになったときに「こうなったらいいな」というおぼろげなイメージでしかない。そのおぼろげなイメージに向かって、小さな不安を乗り越えながら、そしてFORM ON WORDSのささやかな提案と他の参加者のセンスに小さく後押しされながら、つくっていくみんなの姿が勇ましく見えた。

もちろん!ワークショップとしては反省点がありちらかしてるし、ぼくももう少し日常的に服づくりしようかなとか色々考えている。しかし、永遠に着たいけれど着られなくなってしまったものをもう一度新しくするための技術を学べ、その挑戦ができるきっかけを人は求めていて、このワークショップを通してつくっていける展望が見えた。





最後に謝辞を。

ワークショップの機材・備品の準備から飲み会、そしてみなさんご自身の服づくりまで(!)一週間みっちりお付き合いくださった丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の古野さん、平山さん、林さん、宇川さん、佐藤さん、みなさんの機敏なサポートのおかげで、得難い経験をすることができました。またMIMOCAに遊びに行ける日を楽しみにしています。

そして参加者のみなさん、今回の経験がこれからの生活に役立つことを願っています。またどこかでお会いできますように!

最後の最後に、このワークショップの試作にご協力くださった、央子さん、大菅さん、お二人のお陰で見えた課題が、このワークショップに活かされました。

みなさま、本当にありがとうございました。




2014/09/08

美術展、子ども、参加 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その2

森美術館で8月31日まで開催されていた「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」展に、ぼくが関わった「子どもキャプションプロジェクト」の成果物が展示されていた。

この展覧会については以前にこちらで書いている。→「子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1


想像していた「子どもがかいたキャプション(作品解説文)」というよりは、「こどもの感想つぶやき(まとめ)」というような印象だった。ワークショップ自体も、小学校の鑑賞プログラムと一緒にやったので、そういうアウトプットになってしかるべきだと思う。

今回のワークショップに関わって、その成果物を見て思うことは、ワークショップにおいて、子どもなど参加者は「共同制作者」なのか「サービスの対象者」なのか、ということ。

子ども向けのアートのワークショップにはいろんなタイプがある。ひとつは、アーティストの手法を体験・模倣・学習する機会。彫刻、絵画、音楽などさまざまであるがアーティストの特徴的な制作の手法を模倣させるもの。あるいは、簡単でだれでもできる敷居の低い工作。持ち帰れる飾りものや日用品を簡単につくることができる。美術館で「夏のこどもフェア」的なものがそうだ。(ここには結構多くの家族連れが集まるらしく、来場者数を稼げるという事情もあるらしい)そして、日常的に行われているのが展覧会の鑑賞ツアー。学校向けのプログラムで、学年単位で来館し、子どもたちに美術館のスタッフが作品の魅力を伝えるツアーを実施するようなかたち。

他にもいろんなモノがあると思うが、その多くは、アーティストの仕事/(主催者が考える)アートの価値を子どもに対してわかりやすく翻訳してあげるための手段/サービスだと思う。つまり、子どもは「お客さん」以上の立場には成り得ない。

唯一、アーティストと子どものガチンコ制作だけが、子どもを「主体的な」参加者であると捉え、新しい作品の共同制作者という立場で迎えている。それは作品制作のために、子どもが持つ楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ感、過剰さなどが合わさった質感が、作品のコンセプトをより強いものにし、目指すべきムードを演出するために必要なものである場合に限る。

今回の「子どもキャプションプロジェクト」は、作品ではなく展覧会という一つの物語/文脈/構成に、子どもたちがその楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ、過剰さなどをもって参加することができる、可能性のあるフレームだと思った。結果的に「子どもの感想つぶやき」のまとめのようなかたちになったが、ワークショップのしつらえ次第では、子どもたちが作品の資料から物語を構成し、自分たちの目で作品を解説するプロジェクトにもできたかもしれない(ものすごく時間とコストがかかることだけれど)。

子どもが大人に対して作品の意味を翻訳するということを起こしうるのが、ワークショップの本当のポテンシャルなんだと思うが、どうか。こうした子どもと展覧会が関わるプロジェクトの、今後に期待しつつ、自分にもできることをかんがえていきたい。


2014/08/27

ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み




8月20日(水)、練馬まちづくりセンター主催のシンポジウムに参加させてもらった。その主軸は、ドイツ・ミュンヘンで行われている「子ども青少年フォーラム」の話を、その運営を担当されている「子どもの参画専門員」であるヤーナ・フレードリッヒさんの講演。

ドイツでは「子どもの権利条約」に則って、遊び場を新設・改築するときは必ず子どもの意見を取り入れることが法律で制定されているらしい。こうした背景からおこなわれている「子ども青少年フォーラム」は、遊び場や図書館のような公共施設、交通や地域コミュニティの課題など、様々な課題について子どもたちが議論し、大人に議会で提案し、可決されれば大人がそれを実現させる、かなり実際的な活動だった。ヤーナさんたち「子どもの参画専門員」は市役所の公務員であり、行政がこの活動をNPOと協働しながら主催している。

「子ども青少年フォーラム」のプロセス

おおまかなプロセスは、こんなかんじだ。

まず、広報活動。リーフレットを配布したり、学校に出張授業にいったりして、「子どもの社会参画」の意味を伝える。そこで関心をもった子どもたちが放課後の時間にワークショップに参加する。

ワークショップでは、まちの様々な課題について議論が行われる。問題を解決する具体的な提案を子どもたちがつくっていく。たとえば公園の改築案や、交通事故の問題解決についてなど。

リサーチでは、様々なキットの入ったスーツケースを持って、現場の視察を行う。子どもたちが街に住む人に取材をし、ワークショップで生まれた提案をブラッシュアップしていく。このスーツケースの中身については後述します。

そしてフォーラム。こうしてつくられてきた提案を審議する。大人の議員もいて、子どもたちに現状を説明したり、子どもたちの提案について質問をしたりする。こうしたプロフセスを経て、子どもの提案の可否が問われる。可決された提案は、その場でその担当の大人が、子どもたちによって決められる。「実現させます!」ということを、大人が子どもに約束する。

こうして、子どもたちのアイデアが取り入れられることで子どもが楽しく暮らせる街になり、また自治の感覚が育まれることでよりよい民主主義的な政治が市民によって行われることになる、というわけだ。


「子どもの社会参画」って説教くさいしつまんなそう

とはいえ、日本語で「子どもの社会参画」と聞くと、なんとなく説教臭い感じがするし、大人の都合に付き合わされてる子どもの姿を想像してしまう。最初にこの話を聞いた時、中学生のころにあった「子ども議会」のようなものを思い出した。役所の議会で子どもたちが遊び場の課題や、いじめの問題などについて作文を発表するというようなイベントだったと思う。

その作文は提案ではなく、なにか施策として実現されるわけではない。学級委員的な「いい子」が学校の代表として選出され、予め先生とつくった作文を読み上げるという感じのやつだった。子ども自身が楽しくてやっているというよりは、大人の都合に我慢して付き合っている、それをやると学校代表っていうステータスになる、みたいな。

しかし、ミュンヘンの事例はそうではなかった。写真で見る子どもたちは楽しそうに、そして責任感のある表情をして活動をしていた。なぜ・・・?その謎をとくカギは、講演と、その後の懇親会でヤーナさんに直接聞いた話にあった。

ここから先は、ぼくの間違いだらけの理解と解釈というか妄想含むので、正しいものとは違うかもしれません。


誰かと共に生きる物語世界へ

まず最初の驚きは、子どもに社会参画の意味を伝えるリーフレットにあった。「社会参加にはこんな意味があります」と説教するのではなく、子どもが社会に参加するということの意味を、書き込み方のゲーム絵本によって伝えている。



絵本はドイツ語で書かれていたし、ヤーナさんの英語を読解しきれなかったぼくの憶測でしかないことをお許しください。

シャイで自分の意見があまり言えないという設定の主人公を、読者に置き換えるために名前、性別、性格を書き込む欄がある。そしてこの絵本には子どもの友だちとしてドラゴンが登場する。これは、子どもの「不安」「ワクワクする気持ち」「言葉にならないアイデア」など、言語化されない感情を象徴している。その都度、読者は自分の感情を空欄に書き込み、このドラゴンとうまく対話しながら、友だちと付き合い、環をつくっていく過程が物語になっている。

誰もがもつ言語化できない感情を共有しながら他者とともに生きていく。「参画」という政治的な意味合いをもつ以前の、人間の社会のコンセプトをこの絵本によって、しかも書き込みによって参加させながら伝えていく。ここからすでに、子どもたちによってつくられる物語は始まっている。

ライプチヒの絵本工房でも思ったことだけど、ドイツにはファンタジーと政治をつなぐ文学性がそもそも土壌としてあるんだなという感じだ。なるほどミヒャエル・エンデの育った国だ。


「政治の仕組み」を「遊びの仕組み」に読み替える

そして2つ目の驚きは、ワークショップだ。ぼくが想像していた子どもが順番に手を上げてお行儀よくしなきゃいけない感じとはおよそ違った。

テーブルにはなんでも描きまくっていい模造紙が敷かれ、ペンやクレヨンなどあらゆる画材、粘土やブロックなどのあらゆる材料が用意されている。どうやら空間もパーティー感たっぷりで、ジュースやお菓子もたっぷりらしい。子どものテンションをあげるための

そして進行はワールドカフェみたいに5つの議題を5つのテーブルで。参加する子どもたちは順番に巡っていく。きっと、とりとめもないことをぎゃーすか言い合ったり、絵を描き殴ったり、粘土で人形劇したりするんだろう。

「議会」という大人の仕組みを、子どもの世界、つまり遊びの文法に読み替えて展開する。混沌とした遊びの世界から立ち上がるアイデアを待つ。


「それってこういうこと?」大人がさしだす言葉とかたち

ぼくの想像では、子どもがリーダーシップをとってまとめていけるよう、大人は引いて見守っているんだろうと思っていた。ところが、このワークショップには大人がガッツリ参加する。

ワークショップの最中、図書館なら司書さんが、公園なら建築家が、それぞれテーブルを注意深く観察している。そして何度目かのローテーションののち、子どもたちの意見/表現を読み解き、つなぎあわせたアイデアを「それってこういうこと?」とスケッチを描いて提案する。

子どもたちの、点在するバラバラな意見/表現を、プロフェッショナルである大人がつなぎ、言葉やかたちを与え、高次の統合を遂げる。それを見て、「そうそう!」「違う、そうじゃない!」「ここはこうであーで」など、よりディティールについて議論が深まっていく。デコレーションは得意だが、土台・枠組みをつくるのが苦手な子どもに、やわらかい枠組みをさしだし、やりとりをしながら「提案」として練り上げられていく。


街に出て遊ぶ

そして、三つ目の驚きは、街に出て行うリサーチ。子どもたちと一緒にもっていくスーツケースの中には、カメラ、マイク付きのMP3プレイヤー、地図、写真を出力するためのプリンター、スケッチブックやペンなどの画材などが入っている。そしてそれらの使い方を説明するハンドブックも。

公園の利用状況について調べるために、遊んでいる様子の撮影や利用者へのインタビューを行う。コミュニティの調査の場合は、地図にマッピングをし、トルコ系移民の人はネコ、高所得者の人はクマなど、スタンプでキャラクター化していく。ハンドブックにはそうした使い方が書かれているそうだ。リサーチ自体がある種のゲームでありごっこ遊びであるようだ!


アートプロジェクトとしての参画

リサーチの遊び性をつなぐように、フォーラムでの発表では、大人みたいなパワポのプレゼンではなく、劇をつくったり、歌をつくったり、時にはラップで表現することもあるようだ。そんなのほとんどの子どもは恥ずかしがってやりたがらない。一体どうなってんの?という感じだ。

遊びという言葉を使ってきたけど、これは実際的で政治性をもった演劇とも言える。「子どもの権利条約」あるいはそれに基づく法律が「戯曲」で、子どもは俳優。「子どもの参画専門員」はその演劇をかたちにする演出家であり、ドラマトゥルクなのかも知れない。そう考えると、「子ども青少年フォーラム」はアートプロジェクトであるとも言える。

実際の政治のために、「遊び」を媒介に行政が子どもを包摂する。行政主導のアートプロジェクトの、一つの正しいカタチなんじゃないか。


社会参加は大人から

シンポジウムの最後に卯月先生がまとめの言葉で、「練馬にはプレーパークや旭ヶ丘アートスタジオ、アーティスト・イン・児童館のような子どもの参画を面白くつくりだすプロジェクトがたくさんある。これらをまとめる大きな仕組みがあれば、練馬もミュンヘンのように、子どもたちが楽しく暮らせるまちにもっと変わっていくと思う」というようなことをおっしゃっていた。

実現するためには、市民の声をあつめて、議会を通して行政の計画にするという壮大さがある。多くの人が面白がるような「参画」のコンセプトを、日本語で練り上げる必要がある。そして学校や家庭、NPOを巻き込んだ、緻密なゲームの設計も。 



とにかくミュンヘンの「子ども青少年フォーラム」の運営やその担い手が共有してるコンセプトやセンスが一体どうなってんの?と思うので、視察に行きたい!でも、視察したからといってこれを練馬で実施します!みたいなことをいう勇気はまだない。しかし、卯月先生の言葉から、参画はまず大人からなんだなと思った。ちょっとずつ、「なんかこういうこと議員さんに提案してみない?」というような気運が高まっていったらいいなぁと思う。














2014/07/23

どうしようもなくやってしまうこと、魅力、自分のかたち

「がんばろうという意志をもって成し遂げたこと」のつみかさねを「実績」と呼ぶとすると、「どうしようもなくやってしまうこと」のつみかさねはなんだろうか。

それなしでは生きられないほど本人に必要なクセとか、習性とか、仕草とか、そういうたぐいのもの。どうしてか選んでしまっている服たち、どうしてか好きになってしまうこれまでの恋人たち、身体の芯をふるわせた映画たち、話すときにしてしまいがちな顔の角度、口の形、手の動き、などなど。

習性・傾向・クセなど、一見するととるにたらないものから、その個人の生きていくセンスが見えてくる。そしてそれは往々にして、他者に発見されながらかたちづくられていく。そしてそれが魅力であるとされればされるほど、その人間のかたちが美しく良いものになっていく。

他者は、どちらかというと、「意志をもって成し遂げたこと」よりも、「どうしようもなくやってしまうこと」に信頼をおき、また魅力を感じる。(同時にドン引きしたり、嫌悪したりもする)

でも、我々はどちらかというと「意志をもって成し遂げたこと」を美談とし、「どうしようもなくやってしまうこと」には恥を感じたり、無自覚だったりする。

「どうしようもなくやってしまうこと」に対する他者のまなざしを活用し、うまく自分をかたちづくっていくことの、なんとしなやかなことか。


2014/06/10

嘘、ロールプレイ、ムード

子どもと日々接するなかで思うことは、彼らは毎日倒錯した欲望にかられていて、嘘をついたり騙したり虚勢をはったり、人と違う姿でありたいと願うあまり他人に迷惑をかけたおしたりして、暮らしている。かと思ったら足並みを揃えたり、先生の言うことをちゃんと守るお手本のような子もいる。

子どもが事実をでっちあげているところに、何度か出会ったことがある。現実って幻想なんだっけ?とそのたびに思う。そっかぼくたちは世界を都合良く解釈して生きてるんだなとか。

ぼく自身にもそういうしょーもない嘘をついてしまった経験はごまんとある。それによってどんよりしていく気持ちを知っている。誠実に正直に嘘をつかずに生きていることの気持ちよさもよくわかっているつもりだ。だから、そういう嘘をつく子には嘘の持つ悪さを伝えたいと思っているし、そうしないほうが気持ちよく生きていけることをわかってほしいと思っているんだけど、そのことを話そうとすると、「先生」と「生徒」のロールプレイになってしまって、彼は「はい」「はい」といって話を聞いている(振る舞いをちゃんとしている)のだけど、ぼくの言葉は彼の心には響かない。「説教」という日常にありふれてしまった場面の再生でしかなくて、そこで交わされる言葉には情動はない。あるいはぼくが情熱的に語ったとしても、説教されモードにすぐ入ってしまって、彼の心は動かない。というジレンマがある。

「一つの嘘を隠すには、約30の嘘が必要だといわれているんだ」

というのは、『約30の嘘』っていう映画のセリフで、それだけしょうもなく罪を重ねてしまうことになっていくし、その小さな重なりは、自分の体を少しずつ重たくしていくし、なんか嫌な臭いがするようにもなってくる。

そうなってほしくないので、彼には何か別の体験が必要なんだなと思う。虚勢のために生きなくても、自分がおもしろいと思うことに没頭したり、自分がいいと思えるものをいつだって信じられるようになったり、そういうことが。それは大人が彼に経験を与えるっていうことじゃなくて、むしろ誰かとの偶然の出会いや関係性の中で開かれていくものだろうから、そういった出会いが彼にあることを願うばかりだ。

そういえば今日の帰りの池袋の構内で、壁に寄りかかって話す男女を見かけた。よくある光景だけど、多分その二人はまだ付き合ってなくて、でもお互いのことを素敵だなと思っていて、それを伝えあおうとしているラブ始まっちゃいましたムードがとにかく濃くて驚いた。

恋愛は顕著だよな、関係性の中で開かれる新しい自分みたいなのと、そこが未知だけど楽しくなっちゃう感じ。とにかく面白くてグルーヴィーな恋愛にはいつだってムードがあるし、それがなくなったら情動の交換のない、停止したロールプレイがあるだけなんだろう

ウォン・カーウァイの『花様年華』はとにかくそのムードを描いた映画だけど、妙に観たくなってしまった。

2014/06/04

子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1

森美術館で先週末からはじまった「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」。子どもを題材にしたアーティストの仕事から、子どもという存在の意味を問い直す素晴らしい展覧会。

ぼくはいま、この展覧会の関連企画「子どもキャプションプロジェクト」の企画の手伝いをさせてもらっていて、それがすごく楽しいけど超難しい。ただでさえ難しい作品のキャプションを書くという作業を、子どもに任せようというのだから、そのプロセスをワクワク楽しくつくるのはなかなか大変だ。

この展覧会では、子どもとはあらゆる文化・国・政治・あの世とこの世を、その状況下に翻弄されながらたくましく自由に行き来する「媒介者・間を行くもの(=go betweens)」ととらえられている。複雑な世界を生きていく子どものたくましさに希望をみる、そんな展覧会だ。キュレーターの荒木夏実さんをはじめ、スタッフのみなさんの熱量をがつーんと感じる。

だが一観客として見てみたときに、正直、ちょっと子どもの孤独、自由、想像力という部分にフォーカスをしすぎていて、作品の別の側面の魅力が見えにくくなっちゃってないかな、と感じるところもある。なんでもかんでも子どもはすごい!と肯定しているように見えなくもない。メッセージを可能な限りシンプルにした結果なのだと思うけれど。

子どもは神秘的だ!子どもはたくましい!子どもは孤独だけど自由だ!と声高に大人はうたいたくなるものだしぼくもそうだけど、それらは大人の願いとも言えるし、期待とも言えるし、勝手な幻想とも言える。その幻想が子どもをよい方向に導くこともあれば、抑圧したり、大人が用意した方向性に迎合させてしまって、彼らの意志を奪うことにもなってしまう。子どもに対して何かを願うことは、難しく、繊細な問題だ。

もうひとつ、ほぼ全ての作品に、子どもが被写体として登場する。だからこそ、その子どもが誰なのか、その意志がどうあるのかが気になる。アーティストの内なる子どもの姿なのか、その子自身の代替不可能な個人としての生きる意志を記録したものなのか、あるいは「子ども」という表象を扱っているのか。

子どもたちとスタッフが共作した「地獄」のオブジェの前で子どもがその紹介をする山本高之さんの《どんなじごくへいくのかな》や、女子中学生のエスカレートしまくった悪ふざけを記録した梅佳代さんの《女子中学生》は、そこに映る子どもとアーティストのグルーヴィーな共犯関係を感じる。

フィオナ・タンの《明日》、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《エイト》などは、子どもを被写体として割り切っていて作家の子どもへのエモーションを画面上からは排除している。そのある種の冷たさが、かえって子どもという表象が持つ力強さを描き出している。もちろん、制作の舞台裏では、子どもたちとアーティストの親密さがあるに違いないのだけど。

一方でぐっと近づいて撮った記録もある。在日韓国人の家族のポートレイトとそのインタビューを記録したキム・インスク《「SAIESO:はざまから」シリーズ》、アスペルガー症候群をもつとされる男の子が母親にしたインタビューにアニメーション映像をつけたSTORY CORPS《Q&A》などは、ヘッドフォンから流れてくるその声の震えから、複雑な状況を生きる代替不可能な個人の意志と、それに凛として寄り添うアーティストの関係を感じて、うっかり涙ぐんでしまう。

とにかく26組のアーティストの作品からは、子どもたちが複雑な状況を生きることへの深い情愛と、その状況をたくましくかろやかに、想像力豊かに生き抜いていくことができるだろうという強い希望を感じる展覧会だった。子どもも楽しく遊べるような参加体験型の作品をあつめた「こども向け」の展覧会とは異なる。大人と子どもも、自分の中の子どもと大人が揺れ動く。

と、まぁこんなふうに書いたぼくの感想は、どうしたって26歳男子の視点でしかないし、現在の展覧会のキャプションは大人向けに、大人が用意したものである。そこにクサビを打つような、まったく別の物語を開くような言葉を、子どもたちにつくってもらえるのか、どうなのか。それはこの後のキャプションづくりのワークショップにかかっているし、どうにか面白くしたい。

2014/05/26

ワークショップのドラマトゥルギー その1

今、アー児のスタッフ研修で「ワークショップの手法を学ぶ」というのをやっている。ぼくが昔Heu-LEっていうNPOで学んだ方法をベースにこれまで実践してきた経験をもとに、そのノウハウをみんなに頑張って伝えているところ。

前々回はその理論編と、簡単なワークショップとして、「リバースカメラ」というアプリをつかって逆再生でおもしろ映像をつくる、というのをやってみた。

今回は、並木くん、金子さんそれぞれにワークショップを考えてきてもらい、1時間ずつ実践をしてもらったあと、アー児におけるワークショップの意味とか役割ってなんぞや的なことを話をした。話してみて、やってみて気づくことはもちろんたくさんあって、こんなふうに付き合ってくれる二人に本当に感謝である。


並木くんは10kgの機材と数十枚のレコードを運び込み、「Hip Hopのトラックをつくる」というワークショップをやった。簡単なスライドも作ってきてくれて、しかもA Trive Called Questのドキュメンタリー映像で説明するなんていうシャレも聞いてて、いい感じの冒頭。


「トラック作りには音楽の知識は必要ない。いいなぁと思う8小節をサンプリングして、そこにビートを乗せる。それだけでできるんです」というシンプルな内容なのだけど、ソウルやファンクの曲から実際にサンプリングしてトラックをつくってみると、その歴史のつながりすらも体感できて面白い。


なにしろレコードにまともにさわったことがない身としては、針を落として回すと曲が流れる、という仕組みに興奮しちゃうし、パッドを叩いてビートができる感じとかおもちゃ感がすごいし、楽しんだ。

金子さんは「自分にはなんにもない・・・」と言いつつ、「今日の出来事をZINEにする」というこれもいい感じにシンプルな内容を考えてきてくれた。それぞれに今日の出来事を書いて、それをシャッフルして他の人の文章に挿絵を書く。しかもガーリーにマスキングテープや折り紙を使って!


みんなにとってきょうのトラックメイカー体験が新鮮だったので、みんながなんとなくターンテーブルの絵を書いていたので統一感がでていてよかった。






トラック作りもZINE作りも、普段やらないことをやってみて楽しめる、というのはワークショップのいいところだ。とにかくワークショップには、導入→アイスブレイク→制作→まとめ っていうおおまかな流れがあって、それをやってみようという話だった。

最近すごく思うのは、ワークショップ(という言葉は未だにあまり好きじゃないから積極的には使いたくないんだけど)の場には、そこに居合わせる人々それぞれの物語があって、そこで起きたことがその物語に多少の変化を与えていく。つまり、ワークショップは他者の物語に変化を起こすものなのだ〜ということだ。

そう考えたときに「ドラマトゥルギー」という言葉が浮かんだ。ぼくのイメージでは「物語を操作する」というような意味合いなのだが、友人であり、FAIFAIやチェルフィッチュのドラマトゥルクを務める優秀な男セバスチャン・ブロイに聞いてみたら、それにあたる直訳は無くて「脚色」「演出」「制作」「翻訳」の曖昧な集合体だという。

ぼくが聞いたことのある曖昧な知識は、ドイツはもともと翻訳文化で、イギリスやフランスの戯曲をドイツの状況に照らしあわせて上演するときに、どう翻訳するか、というのがドラマトゥルクの最初の役割だったと言われているそうだ。それはつまり、もともとある物語を、今・ここに合わせて操作していく、というのがその特徴ということだろうか。

一方で、アーヴィング・ゴフマンは、「ドラマトゥルギー」を社会学的観察方法として位置づけた。ある場所に集まる人それぞれに物語があり、そこに登場する人たちをキャラクターとして見立てて、物語論的に場を解釈するあり方のこと。ここには物語の操作という要素はほとんどなく、物語/演劇として現実を解釈する、という要素のほうがつよい。

ワークショップの場合、それを実施するために時間・空間・人(スタッフ+参加者)をそろえる、という「制作」的要素と、そこに参加する人それぞれがどんな物語をもっているかを考えるゴフマン的なドラマトゥルギーと、そこに参加する人たちにどんな影響を与えるか/彼らの物語をどう変えていくか、という演劇的なドラマトゥルギーのそれぞれの要素が絡み合っている。しかし、そこに集まる人々の物語を読み、さらにはそこに新しい要素を書き加えていく、という意味では「脚色」の要素もある。

人間はそれぞれの物語を生きていて、赤ちゃんは人間の物語の網目に生まれてくるのだ。そういう物語の網目にエフェクトを加えていくのは、演劇だろうがワークショップだろうがなんだって一緒なんだろうけど、そこでドラマトゥルギーが価値を発揮する。

ワークショップを企画するには、コンテンツはもちろん、その場に集まる人々の物語を読み解く感覚がいるというのは、近頃日々考えているところ。

つづく








2014/05/13

ファッション、物語、戯れ ー拡張するファッション展 その2


4月の終わりから水戸に滞在して、GW。水戸芸術館で開催中の「拡張するファッション展」でFORM ON WORDSの新作発表会「ジャングルジム市場」にて、ファッションショー「試着」を開催してきた。

FORM ON WORDSでは、今回の展示のために300着の古着とそれにまつわるエピソードを集めた。そしてそれをもとに、その物語を体験するための装置をつくるワークショップを実施。60近くのアイデアを13着に集約し、デザイナー、パタンナー、ニッターの方々と共に制作をした。

ファッションショーは、演出・構成にFAIFAIの野上絹代さん、音楽にOpen Reel Ensembleの佐藤公俊さん、難波卓己さん、映像に中島唱太さんをそれぞれ迎えるという超贅沢豪華布陣。

絹代さんが作った演出では、13着の服それぞれに、服それ自体を主人公にした物語があり、一つの服の始まりから終わりを描いている。音声ガイドによって13人それぞれの参加者をリアルタイムで振付をしていく。人口音声が服の語りを読み上げ、絹代さんの肉声による振付がされる。絹代さんらしい人への愛情とギャグセンスと適度な無茶ぶりが込められていて、聞いてて楽しい音声ガイドが出来上がっている。

音楽もまた、13着それぞれの服の形状やエピソードをもとにした曲がついていて、13のシーケンスが場面の展開に合わせてミックスされていく。各回ごとに音楽の展開や重ね方が異なり、コミカルなときもあれば、しっとりと泣かせるときもある。現場でも13の要素で普通人が気付かないような薄い音を流すなど、本当に細かく演奏してくれていた。

映像は、4ヶ所にしかけられたGoProが撮影し、リアルタイムでスイッチングしていくことで、全体を把握しづらいジャングルジムという構造を明らかにしていく。ちょっと湾曲したGoProのレンズが、四角いジャングルジムをスタイリッシュに映し出す。ショーが終わるとすぐにその様子が再生され、参加者のリフレクションや、物語の謎解きのヒントとなる。

そしてショーに出演するモデルは、本番10分前までに参加の意志をもって集まる一般の参加者だ。中にはパフォーマンスの経験を持つ人もいるが、ほとんどが素人だ。そして、自分がどの服を着るか、どんな物語を体験するか、始まってみないとわからない。稽古なしのいきなりの本番を、どう生きるか。そんなショーになっている。

この内容のショーを、5月3日と4日の2日間、全8回上演した。104人のモデル、およそ400人のオーディエンスを迎えたショーをつくるまでの日記をまとめた。



◯4月28日

4月28日に水戸入り。BUGHAUSチームとともにジャングルジム組み上げ。まず、タテ6本×横6本の36本の縦軸をグリッドの交点に置いていく。



そしてひとまず横軸を仮止めし、そこから図面に合わせて横軸を取り付けていく。クランプを締めるバリリリリリという音が部屋中に響き渡る。2階層目が見えてくるところまでは組み上がった。




初日の夜からバンバン飲む下町のアート大工たち。一人ひとりがBUGHAUSでどんな仕事をしたいかを話してたなあ。ぼくはビールをもらいながら演出に関する編集作業。そして寝るときも楽しそうに準備。ほんとに仲いいなこの人ら。



◯4月29日


29日は、2階層目の床板を付ける作業から。あゆみ板を乗せて、バンセンで止める。その上にボードを乗せてビス打ち。出来上がった2階層目に乗って、今度は3階層目を積み上げていく。このあたりから高所作業が入ってくるので、かなり怖くなってくる。



照明、音楽、モデルが加わると、一体どうなるのだろうか。素人ながらなんとか必死に想像をして、棟梁に相談をして3階の配置を変えてもらうことに。広間の空間が大きくとれるように、3階から見渡せるように変更をした。しかし、全員で取り組むと作業は思いの外順当に進み、予定よりも早く終わったのでBUGHAUSチームは引き上げ!


夜は、一人でビールを飲みながら受付周りやら図面やらを作り直し。

◯4月30日

30日から照明や展示位置の作業が始まる。同時進行でファッションショーの演出の構成をつくる絹代さんとのやりとりやら、服作りの確認やら、展示位置の当て込みやら。単管で組まれたものの真ん中に浮かせてみると、服が幽霊みたいに気配を持って見えてくる。いい感じだ。

夕方には映像担当の中島くんも来てくれて、機材を運び込んでくれていた。プロジェクションの位置も当て込んで、いいかんじ!そして、この日は少し早め(といっても21時)に切り上げて中島くんとロイホへ。新しくつくったAR絵本を紹介してくれた。


ちなみにこのARとはAugmented Reality、訳すと「拡張現実」。カメラをかざすと、そこにないはずのモノが浮かび上がる。まるでゴーストのように。奇しくもこの展覧会のタイトル「拡張するファッション」とは異なる文脈の「拡張」の、中島くんは専門家である。この拡張と、展覧会の拡張が一致したら面白いね〜と、話す。

この日も夜は一人。もういいや早めに寝よう、と思いつつ作業をしていたらふと値落ちしていて、再度起きたら時間は2時半。宿泊させてもらっていたレジデンスは古い昭和のお家なのだが、この日は雨が強くてバタバタ音がして、しかも奥の部屋でガタンと音がする…。こわい…。



服を展示して幽霊みたいだの、ARはゴーストだのと言ってたもんだから自分のなかで幽霊を想像する力がたくましくなっていたみたいで、こわい、、、とにかくこわい!ひとりで一時間半ぐらいガクブルしていた。朝のニュースが始まったら気持ちが落ち着いて、寝ることができた。

◯5月1日

5月1日、この日は西尾さんが朝から会場入りする。やはりFORM ON WORDSのメンバーが一人でもいてくれるだけで、だいぶ進む。一人よりも二人のほうがいい。服の展示の位置の再編集と、ショーのシミュレーション、キャプション用のデータの作成など。

夜は「中華の鉄人」へ。お店のなかが無音で、おれと西尾さん、あとの二組は不倫カップルで不倫の話と承認欲求の話をずーっとしてる…。疲れた身体で、一生懸命プロジェクトの話をしようとするわれわれ。

夜はレジデンスに戻って寝る。この日は怖くない。




◯5月2日

5月2日、FAIFAIの絹代さん、Open Reel Ensembleの佐藤さん・難波さん、映像の中島さん、そしてFOW西尾・竹内・濱・臼井イン・ダ・ハーーーウス!!!!イエスYES YOOOOOO!!!!!!という感じで緊張しつつも超嬉しい。さらには京都から服の制作サポートに新庄さんが加わる。

しかし、喜びもつかの間。このあと怒涛の、いや、地獄のリハが始まる。



まず、午前中は絹代さん、西尾さん、臼井で展示位置と小物の展示の確認。OREの二人には音声ガイドのデータをつくってもらい、再編集してもらう。映像の中島さんは機材をチェックし、買い出し。竹内さんは今回発表される新作の服の修理や修正、濱くんは13着が生まれた経緯を見せるシートをデザイン。各自が明日の本番に向けてガツガツ作業していく。

お昼ごはんは近くのKEISEIデパートで買ったお弁当をみんなで食べる。「服作りをする人は、やっぱり体力に自信があるんですよ、ブルーカラーワークなんで」と真顔で語る竹内さんに、佐藤さんが「あ、だからそんなにがっちりした体型なんですね」と聞くと「いや、これは太ってるんです」と返すもんだから全員がずっこけるというなごやかな昼休み。


午後一番で初めてのリハーサル。1週間前のリハではまだタイムラインを合わせることができていなかったから、ドキドキ。水戸芸のスタッフさん、FOWメンバーで試してみる。終えてみた実感は、これは、まだまだだ!!!ということ。小道具の位置、振付の文章の修正、物語が交差する位置の修正、大掛かりな作業をしなければならなくなる。



絹代さんにタイムラインの位置を確認してもらう。ぼくはひたすらそのサポート。やばい、合わない…。焦りが募る一方で、時間はどんどん過ぎていく。今回のタイムラインは後半部分で14分。44個のセルから成り立っていて、合計572個のセルを操って構成している。っていうとうひゃーだなやっぱり

最初18時と言っていたリハーサルも、開始のめどがたたない。18時を過ぎ、閉館時間になってから、スーザン・チャンチオロの展示室にパソコンを持ち込んで、音声ガイドの再録を進めていく。スーザンの作品に見守られて、どんどん作業が進んでいく。

最終的にリハが可能になったのは、夜12時。終了後にいろいろ検討をして、最後はなんと深夜1時…。水戸芸のみなさんにはほんとに迷惑をかけてしまって、もうぼくは心臓が痛かった。これだけ作業に滞りがでるのはスムーズに進むように、事前に何が必要かを予測して段取を組むことができていなかったからだと責任を感じた。


「プロジェクトの質は担当者の手腕で決まる」という言葉があって、ぼくは今回のプロジェクトの担当者だった。作業がスムーズに進むように、段取を組み、的確にパス回しをする役だった。しかし、それができていなかった。ぼくの手腕のなさを、みんなの才能と気合になんとかカバーしてもらったけど、その結果がこの深夜…。

とはいえ、なんとかなるだろこれで!というレベルには到達した。リハを終えたとき、13の時間軸が交差する。ある種の感動があった。


その後帰ってきて深夜3時。腹が減ったので素麺をゆでてみんなで食べる。ビールも飲む。うちの竹内が今回のショーはいい。こういうのがやりたかった、などと終わってもないのに言ってるので、まだ事故があるかもしんないっすよ!とか言いながら、ひとまず寝ることに。


◯5月3日

そして迎えた初日。お客さんが実際に空間に訪れる。ジャングルジムの中に入って遊び、服を試着していく。予想だにしなかった着方や遊び方をしていて、オーディエンスとはなんと迫力のある存在なのだろうかとぼくはあっけにとられてしまった。

ショーの初回。朝なのであまり集まりが良くない。その場にいたお客さん、子どもやそのお母さんに声をかけ、13人に集まってもらう。和気あいあいとした雰囲気のなかで、初回がスタートした。

指示がスルーされてしまう事が多く、全く予想していたものとは違った。うわ、これ、全然思い描いたとおりにいかないかもしれない・・・・・・・・あと7回この調子だと、や、やばい・・・。

水戸が終わって直後に新作のリハに入っている忙しい絹代さんに電話をして、どうしたらいいかアドバイスを仰いだ。なるほど、指示をよく聞くように、ということと、物語部分を楽しんでもらうということと、他の人がどんな物語を体験しているかよく見てもらうということ。

2回目。お客さんも多く集まり、会場の緊張感が増していく。初回の反省を活かし、参加者によくよく指示を伝える。音声ガイドとなるiPodの操作でミスが続くか、3度めになんとか一斉スタートが成功。2回目のショーが始まる。果たしてうまくいくのか…。

手に汗をびっしょりとかきながら、照明を動かす。始めの指示、試着をみんなが始める。次の指示、深呼吸が一斉にはじまったとき、ぼくはこのショーがうまくいったことを知った。あとは参加者を信じるだけだった。

赤ちゃんが泣き始める。歌を歌う人がいる。星座が服に水をかける。動物が加藤になつく。ビッグウェーブの声がこだまする。てるてるが動物を応援する。加藤の服とおじいさんが花と杖を交換する。時間の神様が137億年経過を告げる・・・

知っていたけれど見たことのなかった物語が目の前で生まれていった。嬉しさで震えた。



そんなこんなで初日を終えて、夜はみんなで1回体験してみることに。中島さんが「赤ちゃん」、佐藤さんが「星座」、難波さんが「加藤」、西尾さんは「ラブストーリー」、竹内さんは「キノコ」、濱くんは「花」、ぼくは「まち針」。絹代さんがここにいないのがやっぱり寂しい。

チームのメンバーが実際に体験してみるというのはだいぶ面白かった。「キノコ」は山を登りながら歌う、という設定があるんだけど、竹内さんは「おれなら絶対中島みゆきのファイトをうたいますけどね」と豪語していたにも関わらず「おかーをこーーえーーいこおおおおよーーーー!」と絶叫してるし、佐藤くんは無重力表現が太極拳の動きだし、西尾さんは寒がる動きしてるし、中島くんの泣き方は「おんぎゃー、おんぎゃー」だしそんな泣き方あるかいと思って、知っているとなおさら笑えた。

写真は初日が明けて、ジャングルジムのメインスポット「交差点」から天井を見上げる様子。



夜は中華料理屋でビールと餃子を楽しむ。作業を残したままだったけど、楽しい会食だった。おもに竹内さんのプロポーズ秘話と、DJをやっていたころにズブズブ系ミニマルでフロアから300人を去らせたという伝説の話だったけども。


◯5月4日

この日から本格的に導入した服選びのための適性診断。Yes/Noに合わせて服を選んでいく。まるで占いのように服の適性が決まっていく感じは、かなりいいぞ!と思いながらやっていた。不思議なことにキュレーターの方は「ラブストーリー」もしくは「加藤」になっていく。

11時、10分前になっても参加者はゼロ…。え!ゼロ!となってテンパったものの、なんとか13人集まり、まったりしっぽりいいテンションのショーができる。

13時の2回目はiPodのスタートがなかなか切れず…。このアイポッドシャッフルの人力同時スタートがなかなか難しく、どうしても止まっちゃったり巻き戻してなかったりでうまく行かないこともある。この回もなんとかスタート。

15時の回は会場が超満員。うわさによると90人近くが入っていたとか。その超満員の前で、みなさんなんと一発スタートをキメた。しずかに、スムーズにショーが始まる。OREの二人が奏でる静謐な環境音の中、一人ひとりが「試着」を始める…。

ショーが終わり、ライトアップをすると、会場中に拍手が響く。90人の拍手はさすがに大きい。モデルのみなさんも、充実した顔で出口に集まってくる。まるで劇の上演を終えた役者のように。あぁ、この人達はたった30分前に出会ったばかりなのに、1×13の物語/人生をはじまりからおわりまで体現してきたんだなぁ、と、船の乗組員を迎えるようなそんな気持ちだった。




そしていよいよ最終公演。13人の参加者/モデルのなかに、林央子さんもいる。最後の回なのにぼくはすっかり緊張してしまって、ハラハラしながら適正診断をしていく。その結果、なんと央子さんが「加藤」の服に!!!いや、でもこれはこれで正しい、むしろ最も美しい回答だと思う。と、自信をもってみんなを送り出した。

最終公演が終わり、拍手の中で参加者/モデルを迎える。こんな風にみんなが気持ちよくでてくるところを最後まで想像できなくて不安だったときのことを思い出し、ぐっと涙が出そうになるのをこらえる。参加者同士で記念写真。その後、映像の前で振り返りながら、のんびりと見つめる。



正直ショーには、まだまだツメられる要素がたくさんある。今回が失敗だったわけではない。しかし、可能性がまだまだある。もっといいものが作れると思うから、みんなとこの方法で再度挑戦したいと思う、ということを、みんなに伝えたら、よろしくと答えてくれた。


OREの佐藤さん、難波さん、マネージメントの高石さんと別れ、メンバーが待つ控室に向かう途中、エントランスホールいっぱいにひろがるパイプオルガンの演奏が聞こえた。次の日のためのリハーサルだったのかもしれない。名前も知らない曲を聞きながら、なんだかんだいってよくがんばったんだな、なんとかなったんだなと思ったら涙が溢れてきた。その後すぐに高橋さんが来たから泣いてたのちょっとバレたかなどうかな。

とにかく嬉しかったのは、モデルとして参加してくれていた人たちひとりひとりが音声ガイドに従いつつ、自分なりに一生懸命に動いていたことだった。ただそれだけのことで、人が可愛いと思ってしまったことだった。人生とは稽古なしのいきなりの本番なのだ。無数の選択肢を前に、わからないことだらけの世界を、人のせいにせず、意志の力で楽しむのだ。

ほんとに、このデンジャラスな企画を一緒に作ってくれた絹代さん、佐藤さん、難波さん、中島さん、ジャングルジムをバリバリ組み立ててくれたBUGHAUSのみなさん、展覧会における重要なポジションを託してくれ、制作に寄り添いつづけてくれた水戸芸術館の高橋さん、廣川さん、大森さん、寺ちゃん、そして本展の原案の林央子さん、本当にありがとうございました。

「拡張するファッション」水戸芸術館の会期は18日(日)まで。FORM ON WORDSの新作コレクションは「ジャングルジム市場」にて試着できます。最終日はコズミックワンダーのファッションショーがあります。そして6月には香川県は丸亀市、猪熊弦一郎美術館に巡回します。

会期終了まで、くれぐれもよろしくお願いします。