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2013/11/29

ティーンエイジ、過酷な夜、夜のツアー

最近考えてるアイデアなんだけど、実現できるかわからないけど書いてみる。


まず企画の背景。

児童館で小学校高学年〜中高生を中心に話を聞いていると、けっこう彼らの夜は過酷なんだなぁということを考えざるをえない。「お母さんが働いていて11時まで帰ってこなくて、そこからモスバーガーを食べに行くんだぁ」とか「もう5日連続モスバーガーなんだけど」とか。児童館の閉館時間が終わったあとも家に帰らずに公園でたむろしてたりとか、ゲーセンに直行したりとか、そんな光景も目にする。

家が居づらい、とか、ちゃんとご飯をつくってくれてないとか、家庭環境の難しさに出会うのだ。聞いた話では、給食を食べに学校に行っている子もいるらしい。1日に1食、給食だけを食べている。その食べ方が異常だから保健室の先生が対応したら、その事実がわかったそうだ。

こんな話はもしかしたら見えていないだけで巷にあふれているのかもしれない。映画『誰も知らない』は20年以上前の実際の事件をモチーフにしているけれど、ああいうことはそれから至る所で起きているのだろう。程度の軽いものも含めて。

寂しいし、お腹も空いているし、親とうまくいってなくて家にはあんまりいたくないし、でもずっと友達と遊ぶわけにもいかないし・・・。家にいることが我慢することになっちゃってるのかもしれないなぁと思う。


で、課題。

この微妙な夜の過ごし方を変えていくことができたらいいのにと考える。退屈しない。夜出歩いていい。人と関われる。あわよくば一緒に御飯が食べられる。


ここで企画の参考例。

ぼくが敬愛しているアーティストグループ「Mammarian Diving Reflex」がとてもおもしろいプロジェクトをやっているのを思い出した。『Nightwalk With Teenagers』というシンプルなタイトルのプロジェクト。夜の散歩をしよう、というこれ。(詳しくは、MDRのプロジェクトを経験して育ち、自らプロジェクトをつくるようになったYoung Mammalsの1グループ「The Trontonians」が主催しているみたい。詳細はこのブログに。http://www.thetorontonians.blogspot.ca/p/nightwalks-with-teenagers.html

10代中頃の少年少女たちが、ある街の夜の散歩ツアーを企画する。地元の子達が組んだツアーを、他の街のティーンエイジャーたちや一般の人たちに参加してもらう、というプログラム。

この内容を読む限り想像できるのは、若者の目線を知るのは大切ですね、みたいな教訓めいたもの。でもこのプログラムが提供しているのは多分その視座に限らない。コンセプト文にも書いてあるが、10代の少年少女たちと大人との間にあるバリアをぶっこわすことがねらいになっている。

(プロフィールに「dance on the street, start fights with drunk guys, take photographs, draw penises, ・・・」などと書かれていて、この「The Trontonians」がワークショップ時代のストリートカルチャー/ヒップホップを担ってる感がすごい。)

そもそも10代の少年少女たちが微妙に社会の「ヨソモノ」として扱われていること。そして夜の街を出歩くというネガティブに見える行為をツアーで体験することで、その奇妙な魅力と高揚感を味わえることなど、いろんな演劇的な仕掛けがしてあるだろうな〜と思われる。参加してみたすぎる。



で、提案。

この『Nightwalk With Teenagers』に「夜警」「防犯」みたいな意味をつけて、東京でもできないか、ということ。練馬にも夜出歩いてる少年少女たちはちらほらいる。彼らをオーガナイズしてこのプロジェクトのメンバーになってもらって、企画をつくることで夜の時間がひとつの枠組みに変わる。一緒にご飯食べるのも企画の途中に入れる。さらに地元の人にそのツアーに参加してもらえれば交流のきっかけにもなる。コンビニで出会った時に、わけわかんなくて怖い他者じゃなくなる。

もちろん夜の世界は不思議なので、予想だにしないリスクにあふれているんだろう。でも、なんかできないかなぁ…。

ひとまずの目標はトロントにいってこのプロジェクトを体験したいということだ。(というか彼らのプロジェクトのことを聞きに、ぼくはこの6月にドイツに行ったのだ。まるでおっかけだ。)

2013/11/27

記号消費、ショッピングモール、ネオ公民館

今日知り合った地元密着系カフェの経営者の方から聞いた、お客さんでくる若いママたちの態度がすごい話。

お弁当持ち込んで何も注文しないわ、子どもがキッチンに入り込んでも叱らないわ、他のお客さんの迷惑になっても謝らないわで、やりたいほうだいなんだとか。

「そういうの注意しないんですか?」と聞くと
「怒らせると集団でつぶしにかかってくるからねぇ…」との答えが。

「え!?なんで!?」と理由をきくと、どうやらツイッターやフェイスブックでやたらめったらひどく書くらしい。たぶん「あのカフェは子どもをもつ母親に優しくない」みたいな感じなのかなぁ。そこに「私もそうでした」とビンジョウされて「それはひどい!」と共感を集めちゃったときにはもう炎上。お客さんが近寄らなくなっちゃう、ということがあるそう。共感マーケティングのダークサイド、といったところなのかな。

で、さらにおもしろいのが、そういうお母さんほど有名人の子育てに関する講演会や、「情操教育」を謳ったコンサートなどにせっせと足を運ぶとか。きっと"知育玩具"とかも買いまくってるんだろうなぁと想像する。(でも、造形ワークショップとかやってもあんまり興味を示さないのだとか)

「正しい子育て」という記号を追いかけ、それを子どもに体験させることでちょっとした安心感を得る、終わらない記号消費なのかもしれない。そういう記号消費の体験が子どもを育てているのが実態なのかもしれない。

でも、子育てってうんちにまみれたりげろ吐いたり、人間のプリミティブな部分と向き合うことに必然的になるんじゃないのかなぁ?そういう記号消費の裏には、子育てのしんどさとか、ある種の"ファッション化"した子育てのあり方とか、あるんだと思う。考えさせられる。

結局、ショッピングモール的な匿名文化がそれを育んでるんだろうなぁと感じる。とここまで書いたところで、突然『思想地図β』のショッピングモール特集のことを思い出したので、さっそくamazonでポチった。

歯止めの効かない「消費」の敷衍、世界のフラット化に抗うことはきっとできない。そんな郊外で必要なのは、ショッピングモールの仮面をかぶった複合的な「ネオ公民館」なのかなぁと思う。

それは例えば、1階がカフェ、地下がパーティーホール、2階に保育所・学童保育・高齢者のデイケアセンター、3階がワークショップスタジオみたいな感じの。

SHIBAURA HOUSE」のコンセプトはそれに近いものを感じる。民間企業がこんなかっちょよくて近未来的な空間をつくるのが容易でないことはわかっているつもりだけれど、可能性を信じてみたい。