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2012/06/05

記憶、着床、生息

山本高之さんと、南田中児童館へ。去年11月につくった《きみのみらいをおしえます》の映像をみんなに見せた。 

彼女たちは自分たちがどんな「占い」をつくったのか憶えていたし、他の人の占いも紹介するくらいだった。半年の時を経て、記憶がしっかりとした質感をもって、彼女たちのなかに息づいているのだということを、強く感じた。

彼女たちは、自分の「意志」で、このよくわからないプロジェクトに参加し、作品をつくりあげた。その意志は山本さんが引き出したものであり、その意志に基づいて山本さんとぼくらと「契約」をした。経験を自分の物にする、ということを前提にプロジェクトに挑んだ、ということだ。

「占いをつくる」という意志は、「占いをつくる」という一連の出来事を、自分の中で呼吸し続ける記憶に変える。意志によって出来事は着床し、生息する記憶になる。

しかし、この意志というのもすこぶる曖昧なものだと思ってしまう。やってんのかやらされてんのか、本当のところはどうなんだろう?という疑問がずっとある。

吉野弘の詩「I was born」は、生まれるということが受動態であって、人は自らの意志で生まれでたのではなく、誰かに生まれたのであって、そもそも受動的な生を生きるということ。その前提に経って、なお「意志」とは何か。

バンコク滞在記(3)

帰国からかれこれ半月が経ってしまったわけですが、はやいはやい。もう今月は7月だと思うことにした。

滞在中の記憶もぼんやりしてきちゃったのだけど、バンコクについたらいろんな人が恋をしていて、聞けば、ねずみやゴキブリも路上でメイクラブしてたみたい。暑くてあんまりなにも考えたくなくなってくると、ぼーっとしてきて、そんななかで生活したり制作したりしていくうちに、確かに、そういう冷たくてしっとり気持ちのいいミストみたいな感覚が欲しくなってくる。男性からも女性からも、「Do you have boyfriend or girlfriend ?」と聞かれる。ジェンダーフリーというかボーダレスなのが普通で、ゲイとかレズとかバイとかほんとうになんでもいいというか、そういう人達が分類されていないところ。


人は、揺らいでいるものや分類不可能なものに魅力を感じるというけれど、そういうぼんやりして境界がなくなって、あらゆるものと溶け合っていくような、そういう快楽に身をゆだねるようなところがある。バンコクの空気感。そういう中でポップで、それこそ極楽浄土のような絢爛だけど味わいのある仏教美術のように、カルチャーが育まれていくんだなぁとのんきに感じていた。


もちろんぼくが計り知れないほどのダークサイドもあるわけで、小学生ぐらいの子が売春や麻薬のディーラーをやっているような現実もあるし、階級や暮らしの違いもあるし、当然いろんな問題がある。もはや問題が溢れかえりすぎていて、問題視されない環境になっているのかもしれない。



しかしバスを使ったり屋台で安く済ませたりすれば生活費がほとんどかからないということがもう本当に魅力的だった。危ない目にあってないから、かもしれないけど、とにかくまた行きたいと思うし、きっと行くだろう。



バンコクでは、普段東京ではやらないようなことも思い切ってやってきたし、バンコクで友達になった人はむしろそれする奴って思ってるかもしれないし、そういうキャラチェンジみたいなのもあっていいのかもしれないと思いながら、未踏の領域に踏み出す快楽をつかまえにまた旅をする時間をどこかでつくらなくては。たった8日、されど8日。