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2012/04/30

見捨てられた、遊び、D.I.Y

今月からいよいよ活動がはじまった「クリエイティブ・リユース」に関係するプロジェクトに参加していて、そのことを考えている。

廃棄物を新しく生み変える「クリエイティブ・リユース」と、いわゆる"マイノリティ"の人々を社会の構成員として包み込む「ソーシャル・インクルージョン」は、似た構造を持っている。"見捨てられた境遇"に置かれた人や物を、"社会"に適合するようにデザインしなおしたり、参加のかたちをつくったりする。

よく批判として言われるのは、"社会"は自明のものとしてあるのか?自己批判がないんじゃないか?ということ。確かにそのとおりで、そもそもその"社会"自体がおかしいんじゃないか?システムの作り直しをしないと、と頑張っているわけだ。

ぼくがはっきりと嫌いといえるものに「ファッション」があって、これは衣服のこともしめしつつ、"流行"という言い方もできる。「クリエイティブ・リユース」も「ソーシャル・インクルージョン」も、なんだか"オシャレ"みたいになっちゃって、ある固定的なイメージができあがっていて、それを謳うものは自らそのイメージに縛られている、ような気がしている。それはある「言葉」が生まれたときからの宿命で、それに備わっていくイメージをどうやって乗り越えていくかは、実践次第だと思うのだけど。

そこで重要なのは、「遊び」あるいは「D.I.Y」という文化の有り様なんじゃないか。「クリエイティブ・リユース」も「ソーシャル・インクルージョン」も、課題は"見捨てられた"物も人も、当たり前にそばにいて、そういう人や物と関わらざるを得ない状況をいかにして組み立てるか、ということ。どうしていいかわからない状況を乗り越える方法として「遊び」あるいは「D.I.Y」の作法があるんじゃないかなー、と思う。

ではその作法とは何かー、という話はまた今度。