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2011/10/14

つくることは想像を現実にする

山本高之さんのワークショップ《きみのみらいをおしえます》が始まって3週間!南田中児童館に通い続けて、コツコツと制作をしている。いよいよ、明後日が本番。(http://jidokan.net/blog/2011/1011-965/)

客を写真に撮ると別のすがたが映る《ふくうらない》

ダンボールや布や絵の具や画用紙を使って工作をしていく。はじめ、オリジナルの占いを考えだしたときは、未だぼんやりとしたタイトル(「ハムスター占い」「とけい占い」「まと占い」etc.)と、なんとなくのルール(ハムスターがとまったところで、時計の針で、当たったまとで…)だけだった。





それが、実際に道具をつくり、小屋をつくり、衣装をつくっていくうちに、ぼんやりとした想像に輪郭が与えられ、形になり、そして自分が自分で考えた占いを実践するということが、現実になっていく。そうして、ぼくたちの想像力は拡張していく。

彼らの占い師としての功績は、ビデオに記録され、ウェブサイトで公開される。あるいは展覧会で発表されるかもしれない。そんな風になるとは、まだ彼らは思ってないだろう。そうなったとき、また別の現実に出会うだろう。

想像が現実になる。すばらしいじゃん!って思う。しかし、それは様々なリスクを取ることでもある。ドラえもんの道具が、その使い方を間違えるとえらいの原因になるのと同じように。夢を与えるとか、想像力を広げるとか、響きはいいけど、リスクを背負うことにもなるのだ。




2011/10/13

壁を通過して向かう先

今日は占いの工作を手伝って、平和台児童館に行ってきた。一日過ごし、小学生バンドの演奏を手伝ったり、中学生とだらだら話したりしてきた。こんなことをいきなりできる児童館も少ない。とても居心地がよかった。

それとは別に、それは今大きな壁を前にしているなぁと感じていることがある。世田谷区で2.7マイクロシーベルト毎時の線量を検出したらしい。放射線が原因で自分が死んでもたまらないし、知人・友人がそれで病気になって死んだりしたら、ぼくは何に怒ればいいのか。またそうならないために、今住んでいる土地を離れるとして、そこから先どうしていけばいいのか。「かつて国があった。」映画『アンダーグラウンド』を通じて描かれたユーゴスラビアのことを思わざるをえない。

創作や表現にかかわる活動をしていると、大小さまざまな壁にふさがれる。ふさがれていることさえわからない細く小さな壁や、目の前にするとうろたえるほど大きく長い壁など、さまざまだ。壁のないところを選ぶことはできる。ただ、表現や創作にかかわる活動はあえて壁のあるところを進もうとするもの。

壁に出くわしたとき、選択肢は2つある。その壁を遠ざけ、避けるか、壁をほぐして、ほつれの中を通るか。あるいは壁を攻撃し、倒すこともできるだろう。でもそれはやっちゃいけないと思っている。攻撃し、圧倒すべきは目の前にある壁ではなく、その壁をあらしめている何かなのだ。

たちふさがる壁は、ほぐして通過するべきなのだと思う。たとえ時間がかかったとしても。経験を積めば、壁の種類とそれをほぐす方法と、ほぐすのにかかる時間がわかってくるはずだ。前もって準備ができる。壁との出会いを想定して時間を組むことができる。

壁を通過して、向かう先を考えなければ。「前に逃げる」という誰かの言葉を思い出す。





FNNニュース:

映画『アンダーグラウンド』 エミリー・クストリッツァ監督作品







2011/10/12

『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会

Port B『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会に行ってきた。

去年『完全避難マニュアル 東京版』のスタッフをさせてもらっていたけれど、今年のPort B はまた違う。震災と原発の問題に端を発し、「政治」と向きあうプロジェクト。靖国神社の桜の木の下に埋まる死者の話と、一度も使われずに廃炉になったオーストリアのツヴェンテンドルフ原発の話でこの集会は幕をあけた。

「国民投票」あるいは「直接民主主義」という題材で質疑も血の気の多い感じだったし、豊島公会堂という会場の雰囲気もあったんだろうけど、運動の時代にスリップしたのかと思った。いや、本当に運動の時代に再び突入しているのかも知れない。

このプロジェクト約一ヶ月の期間中、東京と福島の中学生の「声」をあつめるキャラバンカーが、東京と福島の各所をめぐり、そこで昭和の、日本の夢の時代を生きた巨匠たちの話を聴くフォーラムを開き、観客にはある「投票」をさせる、という。まだなんだか分からないからこそ、体験してみたいと思うのは、「まだ生まれていない人たちと死んでしまった人たちの『声』を聞く」その方法の模索へと向かっているからだ。ハンス=ティース・レーマンの「政治の境界は"時間"である。政治が統治できるのは"生きているもの"だけ」という言葉に従って考えて、政治の統治の外側にいる人からも「声」を集めるための仕掛け、ということなのか?「"政治の時間に"まだ生まれていない人たち」の表象としての中学生なの?すると、死者を暗喩するものは?

わからないことだらけのこのプロジェクト、しかしこのオープニング集会は面白かった。ぼくがここで思い出していたのは、大学の授業で聞いた、古代ギリシャの直接民主制の議会の場の話だ。古代ギリシャの都市国家では、住民全員が広場に集まり、ある議題について大勢で叫び合うという場面があったそうだ。そこには意見を言う順番も何もなく、ひたすら怒号が響きあう。しかし、その広場の轟々とした"うねり"のトランスの中で、ある一つの合意へと向かっていく、というような話だった。クラブみたいだな、と思っていた。(うろおぼえ)

ぼくたちは個人でありながら、同時に複数の「声」を宿した身体である。(山本高之さんの《CHILDREN PRIDE》も、この視点で見ることができる)  なぜなら、いろんな人の意見や考えに影響されながら生きているし、それは他者の声を宿して生きることでもあるからだ。

キャラバンカーがいろんな「声」を拾い上げていくところまではなんとなく想像できる。インタビューやフォーラムというかたちで拾い上げられた「声」が集まり、古代ギリシャの広場とは違う、結論に至らない、変な形の"うねり"が、ウェブ上でテキストになって可視化されるんじゃないかなー、というのも期待している。そして更に楽しみなのは、きっと、観客や出演した人、個人の身体が変わるんだろうな、ということだ。宿していた「声」をシャッフルされたら、それは身体が変わるということだろう。これは自分で体験してみないと分からない。楽しみだ。



2011/10/11

想像するための時間

忙しかったり、やることがいっぱいある…と焦っているときは、考える時間が奪われる。しかし、次にやること、次の次にやることを想像しないと、どんどん苦しくなる。

今日は祖父の三回忌だった。お経を聞いたり、親戚のおじさん・おばさんと話しながら、これからのことをぼんやりと想像していた。

想像できる時間があるのはすばらしいことだ。いまは未だ存在しないもののかたちを思いかべる。それができれば、未だ存在しないものを現実にあらしめるための方法を考えることができる。その方法の実践こそ、次にやるべきこと、だ。

「経験」は想像するための素材になるけれど、「知識」もそうだ。知識と経験を組み合わせ、像をむすぶためには技術が必要になる。その技術はトレーニングをすれば、なんとかなる。

想像するための時間がいる。ふぅーと息を吐いて、ぼんやりと遠くをながめ、その手前に像をむすぶ。未だ現実に存在しないものの像を。

2011/10/09

活動を続ける基盤

最近、朝起きて20分ほどジョギングをしているのだけど、これは活動を続けるタフさにつながっていく気がする。目線を前にむけて、ペースをつくりながら次のかどを目指して体を運んでいくのはとても心地いい。この身体の動きが思考と行動の下地になっていくといい。朝走っておくと一日走り続けている気分になる。

まぁ、起きて走り始めるまでノソノソしているのだけど。