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2011/12/31

ここ2週間、アップデート


12月16日の更新を最後に、久しぶりに二週間もアップをさぼってしまった。いかんいかん。ここ最近の体験をいっきにまとめてみます。

◯ナデガタ《全児童自動館》プレイベント


山城監督が中村児童館のウィンターステージに参戦。「はいカットォ!!!これは撮影ですからね!?ちゃんとやってくださいよ!!!」と、お客さんや、ダンスやジャグリングのパフォーマンスを披露しようとする中高生たちにダメだしや煽りをガンガン入れていく。役者とパフォーマーの間にある約束事をつくり、見方を変えていくこの方法。ナデガタが得意にしている「見立て」のテクニックの応用。


◯北澤潤《放課後の学校クラブ》


北澤くんが水戸でやっている《放課後の学校クラブ》の発表会に参加。詳しくは現在連載中のArtscape Blogにて。北澤くんの活動に共通するのは、なんだかどれも隠れ家っぽいのだ。子どもが好きそうな感じ。参加している子どもの1人が「ひっそりつづけたい」と答えていたのが印象的でしたよ。


◯山城監督PV撮影

山城さんが制作しているPVの撮影を手伝って来ました。東京のいろんな場所でバルーンを上げる。風の強さや、ビルの間で渦を巻く風の向きを読み、風船が浮かぶところを捉えるのはかなり難しい撮影だと思う。荘厳なビル群のなかに、自分が手放した風船が浮かんでいるのを見ると、風景をハッキングしたような気分でニヤリとしたくなる。


◯Form on Words 「CampFire」プロジェクト成立!

皆さんに寄付をしてもらって、無事成立しました。オーダーメイドの完売はうれしかったなぁ。お客さんの顔が見えること、知っている人が買ってくれたこと、まだ製品があるわけじゃないのに、これだけの人が買ってくれたこと、これは期待に答えなくてはなりません。


◯秘密基地ヲ作ロウ!

極地探検家の村上祐資さんのワークショップ《秘密基地ヲ作ロウ。》に参加しています。南極で培った様々なノウハウを使って、本気で秘密基地をつくるワークショップ。放課後子ども教室の一環で行われているのもあって、目が離せません。


◯《全児童自動館》説明会開催


ナデガタ3人が久しぶりに中村児童館に集結!児童館で映画をつくる、その最初の説明会でした。中高生15人+大人が一人ひとり自己紹介。ナデガタメンバーと児童館職員、アー児スタッフ、そして中高生が一人ひとり名前と年齢と特技を紹介。ギターやベース、弾き語り、芸能事務所にローラーガール…思わぬ特技連発でした。

2011/12/16

記録の生成、経験と環境

アートプロジェクトのドキュメントのあり方についてはずぅーっと考え続けているのですが、ぼくの場合、児童館の事業として面白いものであることと、アーティストの作品の図録として使えることを両立する必要があります。ドキュメントをつくる視点をどこにおいて活動を見るか。

Nadegata Instant Partyの《24 OUR TELEVISION》の記録集は、ナデガタの活動の仕組みを端的に伝える、すごくクリアなドキュメントになっていて、どんな経緯でできていったのか、ACACの服部浩之さんとスカイプでお話を聞きました。

プロジェクトの期間中から、ドキュメントのことはかなり意識していたそうです。盛り上がった活動を、「こんな楽しいことをしましたよ」みたいなものにするのではなく、外側からの批評があり、英訳がついていたり、作品としての紹介を可能にするための工夫をこらしていったとのこと。 《24 OUR TELEVISION》の活動の実施中は服部さんがACACのブログをまめに更新していたことと、プロジェクトメンバーだけのSNSがあり、ユーザーはかなり頻繁に投稿されていて、それ自体がプロジェクトの記録を生成していました。こうした記録を再構築して、現在のような本がつくられています。


《24 OUR TELEVISION》のドキュメントブック。〈ライブ〉〈プロセス〉〈ドキュメント〉の3層構造で本が構成されている。この本自体がひとつの作品になっている。

当然だけど、このドキュメントは服部さんがどんな視点でこの企画をやっていたのかということが色濃く反映されています。青森に移動してからしばらくは教育普及プログラムを担当されていたこと、ACACに作品の保管機能がないことなどの経験や環境を活かすことで、参加型でなおかつ形に残らないプロジェクト型の作品が生まれていると服部さんは言います。このあたりの「キュレーター」と「エデュケーター」の中間的な仕事ぶりは、とても参考になるわけです。

のんびりと2時間半ぐらいおしゃべりをしてしまったわけですが、そのなかでたくさんのひらめきがあり、いい時間でした!服部さん、ありがとうございました。




2011/12/11

ゲームの作り手、プレイヤー

今日の夜はジョギング。8km 36分30秒。最近、走った距離や消費カロリーなどを記録してくれる「NIKE +」というサービスを使っています。iPhoneとセンサーを同期して、距離やペースを測ってくれる。

iPhone「現在1km4分50秒ペース」
おれ「やべっ!ペースあげよう」

みたいな。とか音楽をかけながら、ペースを確認しながら走れるからいい緊張感をもって走れるわけです。一定の走行距離を走るとレベルアップしたり、「12週間後に10kmが楽に走れる様になるトレーニングメニュー」を作ってくれたりして、ある課題をクリアしながら楽しみながら体を鍛えることができる。さらには「365日間で誰が最長距離を走れるか!?」というコンペティションを自分でつくったりもできるわけです。

最近流行している「ゲーミフィケーション」の事例の1つなわけですが、シューズやウェアーなどの商品との連動や、市民マラソン大会との連動など、これがまたうまくできている。NIKE +というゲームの仕組みに、いろんな方法で参入できちゃう。

裏を返せば、これはネットを介した相互監視システムの事例でもある。開かれたゲームの世界が現実を動かしていくし、調整している。本当に「ゲームばっかしてないで!」みたいな説教文句が意味を成さない世界になってきた感じがあります。誰もがゲームのプレイヤーであり、ゲーム自体の作り手にもなれてしまう。これは面白いですね。

皆既月食、キュレーター

皆既月食を見ながら、色々考えてしまいました。太陽の光を浴びた地球の影が、月を覆っていく過程は、月、地球、太陽の位相を体感する一大スペクタクルでした。

今日は久しぶりの大学の同級生と会って、「坊主バー」というすごく素敵で変なバーに飲みにいったのです。その友人から「キュレーターの仕事に興味がある」と言っていて、わお!いいね!とか思っていたのだけど、どうしたらキュレーターになれるのか、改めて疑問に思いました。
※こんな本もある。「キュレーターになる!アートを世に出す表現者

「美術館や博物館に就職する」それも1つの道だけど、いまはそれが唯一の正解ではない。美術や文芸品を取り扱うだけでなく、最近では「キュレーション」は「情報を収集し、整理する」という意味のマーケティング用語としても使われています。
アートを取り扱う場合は、もちろん美術やその他の歴史の知識・専門性は必要だけど、とにかく足を使って情報を集め、編集する、公開する場をつくっていく。その実践の積み重ねの向こうで、やがてキュレーターとして周りの人に認められていくのだと思います。

ぼくもまだまだ仮免。実践の場をいろんな人に与えてもらえていることに、感謝をしています。とにかく実践は楽しいしハラハラする。自分が今できる範囲のことを、毎回はみ出してチャレンジしているせいで擦り傷だらけだが、そのドライブ感はたまらない。ものすごくちっちゃいことでも、やりたいこととできることは誰にでもあるはずなので、やっちゃえばいいと思います。できちゃう時代だからこそ。

2011/12/10

オープン・プロセス

今日の昼間は中村児童館へ。館長とあんどうなつへ、ナデガタプロジェクトの進捗報告。動きが本格化する前に、ナデガタが思い切り動けるように一つ一つ確認をしていく。おもいがけず安藤さんお手製の五平餅をごちそうになった。



午後はちょっとした仕事を済ませてからオペラシティへ。『感じる服、考える服: 東京ファッションの現在形』を観てきた。デザイナーの独創性だけで服を作るのではなく、そのアイデアが生まれるプロセスを見せるような展示。出展している全ブランドのショーの映像が見られるのだけど、mintdesignsの映像がスマートで、一番好きだったな。Form on Wordsの次回のショーでは参考にしたい。

いっしょに見た、ICCの三上晴子『欲望のコード』もすごく面白かった。徹底的に「視線」にこだわりぬいた作品。


初台から歩いて新宿、ついで秋葉原へ。事務局会議。来年度に向けた「仕組みの設計」の話を共有してきた。これも、自分たちの独創性だけでなく、アイデアを生み、かたちにしていくプロセスの設計。



最近毎週金曜日の夜は、AKBのことを話しながら帰ってる気がする。

2011/12/08

活動の設計、レシピ

今日はアーティスト・イン・児童館のこれからの方針について、文プロの森さん、坂本さん、芦部さんとランチミーティングをしてきました。

これまでの3年間、本当にありがたいことに東京都と共催で活動をさせてもらっていて、お金の使い方やイベントのオーガナイズの仕方、企画の立て方など、たくさんのことを学ばせてもらいました。今後はこれまで培ったスキルをつかって、持続的・発展的な活動の仕組みを設計していきます。

「活動の仕組みの設計」とは、どんなお金で、どんな人と、どんな手順で活動をつくっていくのか、というプロセス設計のこと。アイデアとお金をプールして、そこから構築していくための、いわばレシピづくりです。

どんな仕組みをつくるにしても、目的はこれでもか!ってくらい絞り込んだほうがいいし、アイデアの背景には膨大な情報があってできていたほうがいい。

2011/12/04

プレミーティング、これから


 12月2日(金) アーティスト・イン・児童館の来年の展開を考えるプレミーティングを開催。今考えている構想を発表し、参加してくださった皆さんからいろんなアイデアをもらいました。


参加してくださったのはファッションショーのスタッフや《CHILDREN PRIDE》の現場を手伝ってくださった方々。(みなさまありがとうございました!)「子どもの頃にこんなことがあった」「こんなことをしている人がいて…」参加者の子どもの頃の体験や、ネットで知ったエピソードなどからアイデアがじわじわと広がって行きました。いわゆる「ブレインストーミング」みたいなのは不慣れですが、コレは結構楽しいです。






次回以降は、今回出たアイデアについての情報収集。キーワードは「放課後子どもプラン」「ゲームクリエイター」「アイドルプロデューサー」「編集者」などです。Wi-Fi環境がある3331の存在はとても嬉しいですね。

次回、12月16日(金) 19:30~ 3331 @東京文化発信プロジェクトROOM302。

「ふくづくり工房」始まる

東大泉児童館で「ふくづくり工房」という企画がはじまりました。夏のファッションショーでは子供たちが服の製作に関われなかった、という反省を活かして、彼らに服づくり基礎をレクチャー。講師は竹内大悟さんと高野萌さんにも手伝ってもらっています。



服を知るには解体するのが一番いい、ということで、服を解体して新しい服を作っていきます。針と糸、ミシンなど普段使ったことのない道具を駆使して、なんとか形にしていく。家庭科クラブの彼(写真下)は、ジーンズを分解して1つの巨大なジーンズをつくっている。



ここでは、いわゆる「かわいい」のイメージにするのではなく、パターンを組み合わせてできるシンプルかつストイックな服づくりを実践していきます。自分で着る服を作れるといいですよね。ぼくも勉強しなきゃ。

次回は12月24日(土・クリスマスイヴ!)

2011/11/28

時間の手触り ーナデガタプロジェクト始動

今日は山城さんの家でのナデガタミーティングに参加。中崎さん、野田さん、山城さんの3人のやりとりの中でプランが構想されるプロセスが本当に面白い。イメージを提案し、共有し、拡散し、修正していく。「練りあげる」という言葉がぴったりの、濃密な時間だった。



昨年の8月から2月にかけて10数回児童館に来てもらっていたこともあり、児童館のイベントや、主要人物のキャラクターがイメージの素材になっているようで、リサーチプロジェクトの成果を実感してとても嬉しくなった。

「シチュエーション・スペシフィック」という言葉を服部浩之さんが《24 OUR TELEVISION》のドキュメント・ブックの中で使っていたけれど、ある状況(例えば、中高生がたくさんいる児童館)から彼らが考え出したフレームと、現実の状況とを噛みあわせていく。そのセンスは本当にすごい。そのフレームにはNIP特有の基本構造があって、ときにお馴染みのキャラクターや絵が登場したりする。今回も何が登場するのか、ナデガタファンには楽しみの1つだ。

児童館と中高生、あるいは「思春期という時代」を素材に、思い切り遊んでもらえるように。その過程できっと、感じていなかった時間の手触りが得られるはずだ。


2011/11/25

イエローケーキ、可能性

今日はNIPのメンバーと、3月のプロジェクトに向けて最初のミーティング。《Yellow Cake Street》の映像を見せてもらい、むちゃくちゃドキドキした。直接現場にいけたわけじゃないけど、NIPの作品の中で、間違いなく一番ドキドキした。

児童館は「可能性と出会う場所」だと思っていて、それは学校や家庭では出会えない大人や活動に出会うことだと。中村児童館は、ぼくが中高生という可能性に出会う場所でもあり、中高生がアートという可能性に出会う場所でもあると。できるだけ面白く、わかるようでわからないアートに、最初に出会ってほしい。この最初の体験は、強烈であるはずだから。


2011/11/24

ワンダーサイト、修行

今日は祝日。『サウダーヂ』を観に行こうかと思ったけど、激混みだったので、トーキョーワンダーサイト渋谷『アートの課題2011』へ。岩井優さん、小泉明郎さん、田村友一郎さんと、東南アジアからの招聘作家のトークイベントが行われていた。グリッサゴーン・ティップタップタイさんというキャラクターの強烈さと、それについての田村さんの「E.Tを連れてるみたいで…」語りが可笑しかった。それぞれのアーティストが連動している過程を垣間見ることができた。

リサーチ、制作、アーカイヴという流れができていくあの感じ。そのための環境づくりを、マネジメントの皆さんはどんなふうにこなしていたのか。あるいはアーティストの自発性に委ねていたのか。場所によってやり方も様々なのだろうけれど、数年修行したい。


2011/11/22

水戸へ

今日は高速バスに乗って日帰り水戸旅行をしてきた。目的は、水戸芸術館のキュレーター高橋瑞木さんにお話を伺うこと。

ナデガタの児童館でのプロジェクトに向けて、2009年の展覧会『現代美術も楽勝よ』/ナデガタ作品《Reversible Collection》での高橋さんのお仕事について話を聞いておかなくては、と思った。水戸芸のコレクション展とナデガタの作品という2つの側面を両立させること、一般の市民のプロジェクトの関わり方への配慮、設計、人々の「感情」への配慮と合意形成。お話からどれほどのことが学べたのかは、ぼくの実践によって見えてくるのだろうけれど、水戸まで行ってよかった。ぼくのような未熟者にも真摯にお話をしてださった高橋さん、本当にありがとうございました。

水戸市内をうろうろして、高橋さんのお話を聞いて、清川あさみ展を観て、石田さんとお茶をして帰ってきた。石田さんは文プロと一緒に仕事をさせてもらった最初の年の、アー児の担当の方だ。今は常磐大学で教鞭をとっている。

たまに東京を抜けて、少し遠出するといい。東京を、自分の活動を俯瞰できる。






呼吸をやめる、呼吸をする

今日は書類仕事と打ち合わせを終わらせて家に帰ってきたら、鍋があった。そういえば、中村絵美が北海道で狩猟してきた鹿肉を食べる日だった。久しぶりに、マッカリでみんなでご飯を食べた。電車に乗ってわざわざ来てくれたみんなに感謝。

どうでもいい話だが、ぼくは生まれつき鼻炎で、鼻の通りが悪いからほとんど口で呼吸をしている。だけど今日ふと、鼻で呼吸をしてみよう、と思い立った。

やっぱり鼻の通りが悪いので、少し詰まったようになるけれど、呼吸はできる。普段、口を使って呼吸をしていたんだな、ということに改めて気付かされる。鼻で息を吸うと、呼吸をやめているのに、酸素を取り入れられている、というような感覚に、身体が変わった。そうすると、意識も少し普段より冴えて、考え事にキレが出てきた。これは使える。いい感じだ。

2011/11/20

マネジメントを学ぶなら

デザイナーやアーティストになるのではなく、その周辺でのマネジメントを志す人達が増えている気がする。ぼくもそのうちの一人だが、これは「アーティストが面白いことをするのをそばで見ていたい」「ものづくり(ファッション、音楽、アートetc)の現場に関わっていたい」という素朴な動機から始まる場合が多いだろう。ぼくもそうだった。

マネジメントは観客でも単なる現場スタッフではない。自分の頭で企画を考え、相談・交渉し、自分の足で現場を動きまわって、自分の手でアーティストが活動できる場をつくりあげる責任者だ。だから、つくり手の感覚で動いている。

マネジメントを学ぶなら、どんな小さなものでもいいから、コストを掛けて生産してみるのが一番効果があると思う。自分で企画を立て、人に相談し、資金を集め、実施し、記録し、まとめをつくり、発表し、そしてそれを発展させる、という一連の流れ。

なんか最近やることが大きくなりすぎているから、極小のものを丁寧に作る作業をしてみたい。いや、それの積み重ねでしかないはずなのだが。



2011/11/19

オートマチック、一年

大きなイベントが終わり、助成金申請のシーズンだ。ぼくもガリガリと書いているところだが、アートマネジメント業をしている人たちにとっては、書き入れ時(←この字であってるのか?)

この時期に来年のことを考える、ということが、すこしずつできるようになってきている。去年は、確かこの時期に山本さんに会いに名古屋にいって「なんかやれたらいいねー」というような話をしていた。西尾さんにも、「来年何か新しいことをしましょう」という話をしていた時期だ。いや、しかし、それはなんとなく振る舞いとしてそうしなきゃいけないことがわかってきただけなんだけど。

こうして自転車操業をして、1年のサイクルを、また次の1年を生き延びるために使っていく。オートマチックに繰り返すんだけど、毎年、変化を加えていく。時間とはよくできたものだ。


2011/11/16

遊びプログラムの自動生成

法人をマネジメントする、ということは、人造人間を操作することでもあるけれど、そんなことより利益を増幅させることが大きな目標となる。非営利活動法人とはいえ、同じ。自分たちの収入を増やすための設計が必要になる。収入が増える、ということは、活動がひろがるということだから、公益の増幅につながる(ように設計しなくてはならない)。

「遊び」も「アート」も、「算数」ほどには教育的意義が価値化されていない活動だ。むしろ、されなくていい。わからないものであっていい。よく分からない(けど楽しい、面白い、気になる)ものが、どんどん減っていく方向になるのはよくないと思うのだ。

児童館は「遊び」に教育的価値を見出し、プログラム化して提供する貴重な施設だ。そういう「遊び」のプログラムが自動生成する仕組みを考えている。公園とかマンションの空きスペースとか、子どもが遊べる場所が活用されていないからだ。っていっても「自動」なわけがないのだからオペレーションする組織がいるし、これもまた大変なのだろうけれど。

2011/11/15

人造人間、NPO

ついに法人をつくるために動き出した。正しくは、特定非営利活動法人。法のもとに認められる「人」をつくるわけだから、骨格をつくり、心臓をつくり、筋肉をつけ、新陳代謝の機能をつくり、そうして人造人間をつくるわけだ。それはもうなんだか楽しい。

とか言っていられるのは今のうちなのかも知れないが。人を雇い、自分にも給与を払い、本格的に「経営」が始まる。全く新しい活動のフィールドが開く。


2011/11/13

中村児童館へ、これから


夏以来、久しぶりに中村児童館へ。一大イベント「あきまつり」だった。すっかり間が空いてしまった。久しぶりに会うと小学生は大きくなっているし、中高生のメンバーも少し増えたり減ったり入れ替わったり。彼らは本当によく働くし、力仕事を進んでこなす。ボランティアの学生や社会人も、たくさん集まってくる。本当に人を集める力のある児童館だ。

この児童館で、今オーストラリアで活躍中のNadegata Instant Partyのプロジェクトがいよいよ始まろうとするわけだけど、これもまた相当な覚悟が必要だ。いかんせん、今年のプロジェクトはどれも規模も威力も大きく、いろんな意味で混乱を招いている。これは交通整理できていないぼくの責任なのだが、想いが空回りしてる感じになっちゃってる。

混乱ではなく、"問いかけ"にしなければならないなぁ、と思う。崩壊させてはいけない。高山さんの言葉を借りることになるが、美しい"亀裂"にしたい。『未知との遭遇』のあのシーンのように、揺らぐ光が漏れるような。現状を否定も肯定もせず、判断は観客にゆだねる、という風に。

子どもたちには、自分の意志で、ある程度のリスクを負って、プロジェクトに参加してほしい。そのために参加のフレームを設計しなければならない。その設計として「あきまつり 子ども実行委員会」はとても参考になる。お店屋さんをやる子どもたちも、多少なりともリスクを負っているわけだから。

何をしていいか分からない状態をつくらないように。何をしていたのかわからなくなるように。

Nadegata Instant Party《Yellow Cake Street

2011/11/12

壁、亀裂、道、判断


昨日は朝起きたらぼんやり熱があって、昼前ぐらいに「ヴォ!」っと発熱。もうなんかそういう音が聞こえるようだった。身体のいたるところが断続的にスパークするように痛む。そのあと深い眠りについた。朝起きてすっかりからっぽになった身体は、新しいものを入れる準備ができていた。発熱は、不要になったものを燃やすためなのだろう。



夜は、Port B『国民投票プロジェクト』の「クロージング集会」へ行ってきた。高山さんが今回のプロジェクトのプロセスをふりかえる途中に、プロジェクト中に生まれた詩と短歌の朗読、そして今回のプロジェクトを構築するのに参照したテキストの引用などが織り込まれていく。単なるシンポジウム形式ではない、演劇的な構成に、このプロジェクトが集約した姿を観た。

うまくまとめられないが、"亀裂"と"道"という言葉が何度も登場した。ぼくたちを覆う"壁"があって、そこに入った小さな"亀裂"は、"壁"の外側に抜け出るための細い"道"になっている、とぼくには聞こえた。

が、果たしてこの"空気"の正体とは一体何だろうか。「常識」?みたいなもの?

ある「区切られた時間」「直線的にすすむ時間」のことだろうか。だとすると、ほそい"道"を抜けた先にあるのは、前も後も右も左もない、時間が草むらのように広がる世界ということだろうか?

もしそういう世界に自分自身が放り出されたとしたら、時間を区切り、小さな"壁"をつくるだろう。その"壁"のなかに、誰かを騙し、閉じ込めようとさえするかも知れない。あぁ、そういうことか、「政治家/裁判官としての観客」というのは。観客よ、お前が決めろ、っていうことだ。

ううん、しかしまだまだ思うところがある。高山さんが"道"という言葉を使って言い表そうとしていたもののイメージだ。これはまた今後のシュクダイに。

2011/11/07

プラクティカルな子ども

山本さんのプロジェクトを通じて、自分で考えた価値体系をもって他者を占い、表彰し、路上に繰り出して自分の考えを社会に伝える、という経験をした子どもたちが、たしかにいる。それはメタファーでもなんでもなく、事実。

山本さんを招待し、ぼくが子どもに対してやったことは、新しい体験をさせ、新しい世界の見方をあたえた、ということもできる。だけど、何よりも彼らの行動を変えた事のほうが大きいように思う。

児童館でいつものように遊びに来ていて、なんとなく「占い教室」や「トロフィー工作」に参加して、がっつり小屋やトロフィーをつくることになったり、外に出て「パレード」をすることになったり。(もちろん裏では職員さんたちの手厚い協力があって成り立っているのだけれど) 最初は、「ちょっと覗いてみよう」というぐらいに思っていたかもしれない。なにげなく選んだ行動だったのだけど、最後にはプロジェクトを担う主体になっていた。

そう、彼らはまぎれもなく、プロジェクトのメンバーだった。最後には交換不可能な個人だった。いつものように遊びに来た児童館で、気がついたら、すごく小さな"実際の"社会、政治、経済に参与していくことになっていた。

2011/11/06

4つのシーンの続き



「終わってからいろんなことに気がつく」ということをわかっていながら、本番中にぬかりなくできたかどうか。

まずはじめに観たい「シーン」があって、そのために事を起こす。その「シーン」を成立させるために必要な「素材」をあつめなくてはいけないし、「場所」を確保しなければいけないし、その「シーン」の続きまで想像しなくてはならない。「シーン」を中心に、前後の時間を広く想像し、行動し、形にしていくのだ。

6月から動き始めた山本高之プロジェクト、ワークショップ・シリーズ。4つのプロジェクトがすべてクランクアップ。おつかれさまでした。4つの「シーン」の続きを、これから。

2011/11/05

芸術道路公団

明日で山本高之さんの一連のワークショップ・シリーズの現場は最後になる。これが終わったら展示、ドキュメントの編集の作業になるわけだけど。無事撮影が終わるように、行動をするばかりだ。

現場の頭で動くときは、ディティールまで全力で想像し、駆動しなきゃいけない。そのスイッチをいれるために、身体も温めておかないといけない。大会の本番。プランニングの頭で動くときは、くまなく広がりを想像し、軽やかに広く移動しなきゃいけない。地図を広げておかなくてはいけない。いずれにせよ、人事を尽くす、ということに変わりない。(人事を尽くせ、天命はない)


さて、昨日観た夢のはなし。車に乗りながらラジオを聞いていて、「日本芸術道路公団」という団体の活動が紹介されていた。それは、どうやらぼくが設立したNPOの名前のようだ。車は高速道路で、名古屋に向かっていた。まったくキテレツな名前だが、朝起きてもそれを憶えていたし、音感も気に入っている。確かに"道路"をつくる仕事には興味があったし、この音の響きを好きになりつつある。

明日で最後の現場。山本さんとは、マッカリで一緒に生活をしていたし、飯もよく一緒に食べていたので、いなくなってしまうととても寂しくなる。



2011/10/27

いいと思ったら、まぜかえす

開進第一小学校の校長室にて
《まちのみなさんありがとう》の撮影が完了した!
(http://jidokan.net/blog/2011/1026-998/)

昨日のCAMPのトーク〈実践と判断〉にて、

「表彰式がうまくいって、喜びと喜びで終わってしまったら、その解釈で止まってしまう。例えば、警察の人の『うわ、でかいな...』とつぶやいた微妙な顔を、彼(表彰した子)には忘れないでほしい。」

というような内容を語っていた山本さん。いくつもの解釈のレイヤーがあって、そのどれかにかちっとはまってしまうのではなく、もっといろんなことを考えられる可能性を、彼の作品とその体験はもっている。


今日の最終日は学校の校長先生に「いろいろな話をしてくださってありがとうございます賞」を届けにいったわけだけど、届けたHくんと山本さんは、終わったあとの帰り道、こんな会話をしていた。

山「校長先生、いつもどんな話してくれてんの?」
H「え、わかんない」
山「わからんの?わからんかったら、『いろんな話しを...ありがとうございます賞』あげんでもよかったんじゃないの?」
H「えー...」

表彰できてよかった、と安心しているHくんのなかに、新しい疑問を生む。「あぁ、たしかにあれでよかったのかな?」とHくんが思ったかどうかはわからないけれど、こうして、経験を複層化・多面化している。山本さんの作品をみていると、あるいは本人と話をしていると、いくどとなくまえぜかえされる。ほんとうにラミエルみたいだ。





2011/10/26

子どもとの約束、報酬、経験

今日は午前中、近所の「ごたごた荘」に挨拶に行き、上石神井児童館に《チルドレン・プライド10.30》のチラシを渡して、あずかってもらってたプラカードを持ってかえってきた。そのあと、湯島児童館におじゃましてドッジボールして遊んで、宣伝。夜は、林立騎さんとハンス=ティース・レーマンさんの「クライストと演劇」の対談を聴きにいった。

子どもたちには「これ、参加したら何かもらえるの?」と聞かれるけど、そういうことじゃない。とにかく楽しいし、やったら気分がいいよ!と伝えている。そりゃまぁ「本郷いちょう祭り」だから、何かあるかもしれないけど、そういうことじゃない。たしかに、チルドレン・プライドは路上を歩くし、声を出すから緊張はする。自信をもって大きな声出してほしいなと思うし、その緊張から解放されたときの達成感はひとしお。そういうことなのだ。

もし仮に、これが子どもをパフォーマーとして"雇う"のであれば、話はべつだ。それに応じた報酬が必要になる。でもこのワークショップは、彼らに刺激的な体験を提供することを約束している。達成感とか、表現の自由とか、そういうものだ。だがそれは、何かを解決したり、有益な技術を手に入れたりするものではない。クライストの演劇同様、何度も問い直すことができる、マルチプルな経験なのだろう。あぁ、おもしろい。

山本さんのプロジェクト、まだ3つ残っている。しかし、それもあと2週間で一区切りだ。次はない。そのときはもう新しい時間がはじまっている。終わったら寂しくなるのだろうな。今できることをすべてやりきらないと、きっと後悔するだろう。それは分かっているのだから、今、全力で想像して、現実にしていけ。


2011/10/24

フットワーク、ネットワーク

もともと、なりふりかまってなんていられないはずなのだ。まったく、気を揉んでいたのがあほみたいだ。

今日は本郷の児童館や学校を回って企画の説明をさせてもらった。こうやって顔を合わせると次に繋がっていく。顔が見えないと、なかなか動きも出てこない。フットワークはネットワークになり、ネットワークを充実させるためにフットワークがある。

10月30日(日)《チルドレン・プライド10.30》いろんな子が集まるといいな。

車体、エンジン、ガソリン

「企画」は車体で、「経営」はエンジンとガソリンのような関係で、立派な車体があったとしても、ガソリンがなければその車は動かないわけで。そろそろ、新しい車体にかえて、エンジンもガソリンもタイヤもシャフトもとりかえる時期かもしれない。







2011/10/22

穴を掘れ、底を抜け

空間と、メタファーと、機能について。

名前からは、その機能や内容は伝わらない。例えば「原っぱ」。名前それ自体は「草が生えている場所」というだけである。「原っぱ」は、メタファーを与えることで機能がうまれる。「野球場」にも「サッカー場」にもなる。ある空間にメタファーを与えることで、機能を生みだす。公園、みちばた、壁。町の中には、メタファーをあたえたほうが面白くなる場所がたくさんあるわけだ。

穴を掘る遊びについて

"穴掘り"は夢中になる。穴を掘る、その行為自体がおもしろいのであって、それがどこにつながっていようと関係ない。が、掘っているときにもしかしたら、「どこかにつながっているかもしれない」「もし、どこかにつながっていたら」というようなことを想像しているかもしれない。"穴掘り"をメタファーとして、夢中になって穴を掘っていたら底が抜けて、ふと別の世界・時間につながってしまう。そういう"穴掘り"のための環境を現実にする。


2011/10/19

経験に"問"をしかけるために

子どもの経験に"問"をしかける。あれは一体なんだったんだろう?と問い直すときが、何度も何度も訪れるような、マルチプルな経験をのこす。子どもに関わるものにおいては、そういうワークショップ、アートプロジェクトがいいと思っている。

そのためには、その経験に"快"があったほうがいい。楽しかった、気持よかった、面白かった、興奮した、そういうたぐいのポジティブな感情だ。でもそれだけじゃいけない。

山本さんのプロジェクトを通じて思うのは、子どもの意志、自分で考えることが必要だということだ。彼らが選択した経験であることだ。しかし、そこには親の意志や先生の意志が少なからず介入する。親、先生、児童館職員、子どものまわりにいる大人の、マルチプルな経験をのこすためのネットワークがいる。

自分で選んだことが、楽しかった、面白かったとしたら、それはまた思い出したくなる経験になるだろう。ただ、それは誰かや何かへの"憧れ"であっていいのかな、とは思う。ファッションに憧れる、ショーに憧れる、あるいはそこにいる大人に憧れる。そういう大人になりたい、そういう業界に行きたい!と思った時点で、ブルデューの言う再生産の構造に組み込まれるんじゃないかな、と思う。感動は自分でつくった何かに対してあるべきで、大人は憧れようとする子どもの視線をはね返すか、煙に巻くほうがいいだろう。しかし、子どもに受け入れられると大人は嬉しいのだ。それはとても難しい。


ところで、「マルチプルな経験」のヴィジュアル・イメージは、『エヴァンゲリヲン新劇場版・序』の「ラミエル」だ。忘れているときは正八面体をしていて、外部の刺激(敵の攻撃)によって、思い出す(反撃する)ときにかたちを変える。そんな感じだ。








主体か、メディウムか

ー"声"の向こうに"壁"が見える 《Referendum ー国民投票プロジェクト》

《Referendum ー国民投票プロジェクト》のキャラバンカーとフォーラムを観てきた。

キャラバンカーの中で鑑賞できる中学生たちのインタビュー。福島と東京の中学生の"声"は、自信をもって言えているものと、とまどいうろたえているものと、そして用意されたようにスムーズに答えているものがあった。自信をもって言えている部分は、個人的な習い事や趣味のこと。それ自体は彼らが自分の身体から離れた所で起きていることに対して、自覚をもって何かを言える、政治的な主体になりえていないことをあらわしてる。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と思うような中学生の表情・たじろぐ仕草が焼き付いてはなれない。彼らを戸惑わせる質問と、彼らの個人的な生活のあいだにはへだたりがある。映像を見ていて浮き彫りになるのは、その"へだたり"だ。あるいは想像力をさえぎる"壁"と言い換えてもいいかも知れない。彼ら中学生はその"壁"を前景化させるメディウムである。"壁"が前景化したところで、映像化し"中断"しているのがこのDVDたちであるように見えた。

キャラバンカーが東京をめぐり、福島に戻った時、福島と東京の中学生のメディウム同士が出会うとき、その"壁"の秘密に出会えるのだろうか。この一ヶ月、目が離せないプロジェクトになってきた。


ー意思決定をする子どもたち 山本高之プロジェクト《きみのみらいをおしえます》

同時に進行している、自分が今、学びながら実践しているプロジェクト《きみのみらいをおしえます》。山本さんは、「占いを自分でつくってみて」と投げかける。そこに、子どもがつくった見本は見せない。世界各地の占いの例を見せて、身近な素材でそれをどうやってつくるか、その方法は示さない。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と子どもたちは思っていたはずだ。占いのルールの作り方や小屋の作り方、衣装の作り方は、スタッフの提案や子どもたちの閃きをもとにつくられたものだが、それらはすべて「どうしよう」という戸惑いを経て生まれたものだ。こうすればできるよ、という方法を指定されたものではない。

想像力の射程範囲内の、少し外側にゴールが設定されている。がんばらないと辿りつけない。少しずつ、つくりながら、想像力を拡張していく感じだ。想像力の限界と、その先にあるゴールの間の余白で、彼らの知っているイメージ・知識が総動員される。そこで、イメージのコラージュができあがる。子どもたちはメディウムになって、彼らに誰かが与えたイメージや知識を反映する。

しかし、山本さんは、その想像力の拡張を、撮影することで"中断"させる。もっと練習したり、クジや占いの文言のバリエーションを増やすこともできるが、ある程度で"中断"させているのだ。しかし、この"中断"によって、新しい時間が生まれる。それは映像になった自分の姿をウェブサイトや展覧会で観るときだろう。フレームで切り取られることによって、別の「占い遊び」だと思っていたものに意味合いが付与される。こうして、子どもたちの経験は、「遊び」「撮影」「展覧会」「インターネット動画」というように、メディウムの連鎖の中を移動する。実際に制作していた時とは違う、経験の拡張がすすむ。

一方で、子どもはここで意思決定者でもある。何をつくり、どんなふうにするかは彼らが決めている。彼らが決めた「あなたの運勢」を、他者に伝えるリスクと快を両方負うことになっている。決して政治的な意志決定でないとしても、彼らは決定し、伝えることを、日常的に実践している主体であるようにも見える。主体としての子どもと、メディウムとしての子どもが同居している状態をつくりだしている。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクトを運営しながら、観客としてPort B《Referendum》を体験する。その間で、考えたこと。





2011/10/17

文脈化しにくい「思い出」

「子どもらしさ」を乗り越える方法を考えたいと思っている。

言葉、建物、プログラム。この3つがうまく合わさって、子どもは子どもらしさを、学生は学生らしさを、老人は老人らしさを手に入れていく。「らしさ」に基づいて自分を文脈化し、語ることができる。

人を言い表す「言葉」がある。「わたし」「あなた」「高齢者」「障碍者」「子ども」「学生」「社会人」などなど。それらの言葉を使ってアイデンティティを記述する。その言葉を補完する「建物」がある。「学校」「老人ホーム」「オフィス」とかそういうもの。これらにしたがって、所属・所在を記述する。こうして自分以外の人が、この人が誰だかわかるようにするための仕組みが出来上がっていく。そして、その枠組みの中で物語を生む「プログラム」がある。学校なら授業、オフィスならデスクワーク、老人ホームなら、お遊戯、という具合だ。ぼくは、ここでこんなことをしたよ、あんなことをして楽しかったよ、と語るネタになる部分だ。ネタを組み立てて文脈にしていく。

ここでの問題は、ネタが用意されている、ということである。そしてそれは、「楽しかった」「◯◯だった」と語られることを予定している。修学旅行の「思い出づくり」とかまさにそれ。「思い出」は「らしさ」をつくりだすシステムの重要な要素だ。

アー児を通してぼくは、参加した人のために、語るためのネタを用意している。それが「思い出」になるといいなと思っている。しかし、それは「子どもらしい思い出」との距離をとって、文脈化しにくい「思い出」になるよう仕掛けている。

子どもは、子どもらしくない自分の要素(文脈化できない要素)に気づいて、オシャレをしたり、音楽の趣味を変えたり、旅をしたりして「別の文脈」を引き寄せて、少しずつ大人になっていく。

アーティストの作品は、もちろん子どもらしくない。その中に自分の「思い出」の断片があるとしたら。その断片に、どんな文脈を引き寄せるのかは彼ら次第。面白い大人になってほしい。

2011/10/14

つくることは想像を現実にする

山本高之さんのワークショップ《きみのみらいをおしえます》が始まって3週間!南田中児童館に通い続けて、コツコツと制作をしている。いよいよ、明後日が本番。(http://jidokan.net/blog/2011/1011-965/)

客を写真に撮ると別のすがたが映る《ふくうらない》

ダンボールや布や絵の具や画用紙を使って工作をしていく。はじめ、オリジナルの占いを考えだしたときは、未だぼんやりとしたタイトル(「ハムスター占い」「とけい占い」「まと占い」etc.)と、なんとなくのルール(ハムスターがとまったところで、時計の針で、当たったまとで…)だけだった。





それが、実際に道具をつくり、小屋をつくり、衣装をつくっていくうちに、ぼんやりとした想像に輪郭が与えられ、形になり、そして自分が自分で考えた占いを実践するということが、現実になっていく。そうして、ぼくたちの想像力は拡張していく。

彼らの占い師としての功績は、ビデオに記録され、ウェブサイトで公開される。あるいは展覧会で発表されるかもしれない。そんな風になるとは、まだ彼らは思ってないだろう。そうなったとき、また別の現実に出会うだろう。

想像が現実になる。すばらしいじゃん!って思う。しかし、それは様々なリスクを取ることでもある。ドラえもんの道具が、その使い方を間違えるとえらいの原因になるのと同じように。夢を与えるとか、想像力を広げるとか、響きはいいけど、リスクを背負うことにもなるのだ。




2011/10/13

壁を通過して向かう先

今日は占いの工作を手伝って、平和台児童館に行ってきた。一日過ごし、小学生バンドの演奏を手伝ったり、中学生とだらだら話したりしてきた。こんなことをいきなりできる児童館も少ない。とても居心地がよかった。

それとは別に、それは今大きな壁を前にしているなぁと感じていることがある。世田谷区で2.7マイクロシーベルト毎時の線量を検出したらしい。放射線が原因で自分が死んでもたまらないし、知人・友人がそれで病気になって死んだりしたら、ぼくは何に怒ればいいのか。またそうならないために、今住んでいる土地を離れるとして、そこから先どうしていけばいいのか。「かつて国があった。」映画『アンダーグラウンド』を通じて描かれたユーゴスラビアのことを思わざるをえない。

創作や表現にかかわる活動をしていると、大小さまざまな壁にふさがれる。ふさがれていることさえわからない細く小さな壁や、目の前にするとうろたえるほど大きく長い壁など、さまざまだ。壁のないところを選ぶことはできる。ただ、表現や創作にかかわる活動はあえて壁のあるところを進もうとするもの。

壁に出くわしたとき、選択肢は2つある。その壁を遠ざけ、避けるか、壁をほぐして、ほつれの中を通るか。あるいは壁を攻撃し、倒すこともできるだろう。でもそれはやっちゃいけないと思っている。攻撃し、圧倒すべきは目の前にある壁ではなく、その壁をあらしめている何かなのだ。

たちふさがる壁は、ほぐして通過するべきなのだと思う。たとえ時間がかかったとしても。経験を積めば、壁の種類とそれをほぐす方法と、ほぐすのにかかる時間がわかってくるはずだ。前もって準備ができる。壁との出会いを想定して時間を組むことができる。

壁を通過して、向かう先を考えなければ。「前に逃げる」という誰かの言葉を思い出す。





FNNニュース:

映画『アンダーグラウンド』 エミリー・クストリッツァ監督作品







2011/10/12

『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会

Port B『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会に行ってきた。

去年『完全避難マニュアル 東京版』のスタッフをさせてもらっていたけれど、今年のPort B はまた違う。震災と原発の問題に端を発し、「政治」と向きあうプロジェクト。靖国神社の桜の木の下に埋まる死者の話と、一度も使われずに廃炉になったオーストリアのツヴェンテンドルフ原発の話でこの集会は幕をあけた。

「国民投票」あるいは「直接民主主義」という題材で質疑も血の気の多い感じだったし、豊島公会堂という会場の雰囲気もあったんだろうけど、運動の時代にスリップしたのかと思った。いや、本当に運動の時代に再び突入しているのかも知れない。

このプロジェクト約一ヶ月の期間中、東京と福島の中学生の「声」をあつめるキャラバンカーが、東京と福島の各所をめぐり、そこで昭和の、日本の夢の時代を生きた巨匠たちの話を聴くフォーラムを開き、観客にはある「投票」をさせる、という。まだなんだか分からないからこそ、体験してみたいと思うのは、「まだ生まれていない人たちと死んでしまった人たちの『声』を聞く」その方法の模索へと向かっているからだ。ハンス=ティース・レーマンの「政治の境界は"時間"である。政治が統治できるのは"生きているもの"だけ」という言葉に従って考えて、政治の統治の外側にいる人からも「声」を集めるための仕掛け、ということなのか?「"政治の時間に"まだ生まれていない人たち」の表象としての中学生なの?すると、死者を暗喩するものは?

わからないことだらけのこのプロジェクト、しかしこのオープニング集会は面白かった。ぼくがここで思い出していたのは、大学の授業で聞いた、古代ギリシャの直接民主制の議会の場の話だ。古代ギリシャの都市国家では、住民全員が広場に集まり、ある議題について大勢で叫び合うという場面があったそうだ。そこには意見を言う順番も何もなく、ひたすら怒号が響きあう。しかし、その広場の轟々とした"うねり"のトランスの中で、ある一つの合意へと向かっていく、というような話だった。クラブみたいだな、と思っていた。(うろおぼえ)

ぼくたちは個人でありながら、同時に複数の「声」を宿した身体である。(山本高之さんの《CHILDREN PRIDE》も、この視点で見ることができる)  なぜなら、いろんな人の意見や考えに影響されながら生きているし、それは他者の声を宿して生きることでもあるからだ。

キャラバンカーがいろんな「声」を拾い上げていくところまではなんとなく想像できる。インタビューやフォーラムというかたちで拾い上げられた「声」が集まり、古代ギリシャの広場とは違う、結論に至らない、変な形の"うねり"が、ウェブ上でテキストになって可視化されるんじゃないかなー、というのも期待している。そして更に楽しみなのは、きっと、観客や出演した人、個人の身体が変わるんだろうな、ということだ。宿していた「声」をシャッフルされたら、それは身体が変わるということだろう。これは自分で体験してみないと分からない。楽しみだ。



2011/10/11

想像するための時間

忙しかったり、やることがいっぱいある…と焦っているときは、考える時間が奪われる。しかし、次にやること、次の次にやることを想像しないと、どんどん苦しくなる。

今日は祖父の三回忌だった。お経を聞いたり、親戚のおじさん・おばさんと話しながら、これからのことをぼんやりと想像していた。

想像できる時間があるのはすばらしいことだ。いまは未だ存在しないもののかたちを思いかべる。それができれば、未だ存在しないものを現実にあらしめるための方法を考えることができる。その方法の実践こそ、次にやるべきこと、だ。

「経験」は想像するための素材になるけれど、「知識」もそうだ。知識と経験を組み合わせ、像をむすぶためには技術が必要になる。その技術はトレーニングをすれば、なんとかなる。

想像するための時間がいる。ふぅーと息を吐いて、ぼんやりと遠くをながめ、その手前に像をむすぶ。未だ現実に存在しないものの像を。

2011/10/09

活動を続ける基盤

最近、朝起きて20分ほどジョギングをしているのだけど、これは活動を続けるタフさにつながっていく気がする。目線を前にむけて、ペースをつくりながら次のかどを目指して体を運んでいくのはとても心地いい。この身体の動きが思考と行動の下地になっていくといい。朝走っておくと一日走り続けている気分になる。

まぁ、起きて走り始めるまでノソノソしているのだけど。

2011/10/08

接続回路のイメージ

「接続回路」ということばが好きで、ぼくはこれを好んで使っている。しかし、何と何を接続する回路なのか、どんな仕組みなのか、それがよく見えていないから、今日はそのことを少し考えてみる。


イメージでは、雲と雲の間にパイプを置く感じだ。雲Aの氷晶を、雲Bに移動させる、パイプ。目に見えるモノの移動を想像している。


なぜ「接続回路」ということばが重要なのか、というと、ある特定の領域で世界が閉鎖されることを恐れるからであり、絶えず行き来し、具体的な移動が行われる複数の世界をイメージしているからだ。それはすでに、ネットワークということばで解決されているのかもしれないが、ネットワークから排除されている人々もいるし、自分だってあるエリア(佐々木俊尚さんは「ビオトープ」と呼んでいたかな?)に入り込めずにいる。例えば、量子力学のエリアとか、どこかで接続しているはずなのに、入り込めていない世界がある。複数の世界を行き来することは、アイデンティティを硬直させず、ぼくたちの日常を分解し、複層化させ、編集できるようにしてくれる。


その「接続回路」を通って移動するのは、ぼくたちの想像なのか、具体的な身体なのか、念を記した物なのか。そのパターンによって回路の形態も変わってくるだろうし、移動の方法も変わるだろう。(お金さえあれば)どこにでもいけてしまう交通を手にした今、遊牧民生活は可能であり、(デバイスさえあれば)どこの状況も見れてしまう現在において、想像上の遊牧民になりうる。お金のないぼくたちがいかにして「接続回路」を手にするか、これが重要だ。




メモ:「念を記した物」誰が?誰のために?

2011/10/06

手仕事のプログラミング

「プログラムを組むのが大変なんだ。コンピューターは人間の感情のぶれまでは計算してくれないからね、まあ手仕事だよ。しかし苦労して組んだプログラムが思いどおりにはこんでくれれば、これに勝る喜びはない」(『羊をめぐる冒険(下)』村上春樹・著、講談社)

『羊をめぐる冒険』に登場する黒服の男のセリフ。黒服の男は、主人公をあるゲーム的な状況へと否応なく巻き込んでいく仕掛け人であるが、「アーティスト・イン・児童館 プログラム・ディレクター」という肩書きで活動をしているぼくとしては、今になってこの登場人物にちょっとしたあこがれを抱く。

活動は手仕事のプログラミングだ。構造をつくり、変数を設定し、「時間」を構成してゆく。その作業を、足を運び、会話をし、素材と環境を整え、作業内容を共有したり指示したりしながら、実行していく。

手仕事のプログラミングに必要なのは、ありったけの想像力と、それを働かせる体力だ。その作業を怠るとえらいことになるということを今まざまざと体験しているわけだ。「想定外」に慌てているようじゃ、あまりに未熟だ。「想定外」さえ想定しなければ。

プログラムを組むのが大変なんだ。


2011/10/05

「観察者」から「当事者」へ

山本さんのプロジェクトで現場を駆けまわっていたこの9月に、半年のロスタイムを経て大学を卒業した。単位の計算を怠り、数が足らずに卒業できず、多くの人に迷惑をかけた。お世話になった方々に、心より御礼を申し上げたい。

そんなしようもない失敗を経て終えた学生時代だが、ふりかえってみると、ぼくの中にある「観察者」のふるまいを再発見する。卒論も、自分が呼びかけてはじめた活動(アーティスト・イン・児童館Nadegata Instant Partyプロジェクト《Let's Research For Tomorrow》)のエピソードを記述・考察したものだ。「観察者」の立場は、客観的にものごとを見、新しい可能性をかたちにするための第一歩だと信じているが、この立場はときに、責任を逃れるための言い訳になりえてしまう。自分で呼びかけて活動を始めたぼくは、もとより当事者なのだということを改めて今考えている。ここにぼくは自戒として、この「観察者」という立場の危うさと卒業を機に思うところを書きたい。

「フィールドワーク」ということばが普及して以来、「観察者」は新しい価値をもたらす立場として評価された。それは今、「まちづくり」の活動では基本とされているところだ。ぼくと同世代の友人たちにもこの「観察者」に可能性を感じ、この立場(あるいは気分と言ってもいいかもしれない)に寄って立つ人が多い。ぼくもフィールドワークに魅了され、その勉強をしてきた。

危険だと思うのは、観察者という立場を安易に選ぶとき、無責任におもしろがっていていい立場になってしまう、ということだ。それは傍観になりかねない。そして、傍観はノイズであり、ときに迷惑や暴力になりかねない。

観察は批評であり、批評には責任が伴う。「観察者」はその場所に介入し、変化を加える当事者だ。「観察者」であろうとするならば、まずはじめに変化を与える主体であることを自覚するべきだ。そして、なにをよりよいと思い、その変化にどんな希望を見出しているのか、考えを持ったほうがいい。「わからない」と言っている場合ではない。わからないなりにその都度している決断があり、それを自分の決断として受け入れたほうがいい。

ぼくは「観察」を、可能性をかたちにする第一歩だと考える。そのあとには、とりあげるものを選び、どんなかたちをつくるのかを決断し、編集し、つくっていく作業が待っている。観察は始まりにすぎない。その意味では、ここまで「観察者」と言ってきた部分を「編集者」と言い換えたほうがいいような気もしてくる。


いずれにせよ、観察し、編集し、変化をつくる当事者として、卒業を機に身を引き締める思いでいる。そもそもこの文章は、林立騎さんにもらったコメントへのアンサーとして書き始めた。今年3月に「アーティスト・イン・児童館 コンセプトブック」の原稿へのコメントを求めたとき、林さんからコメントを寄せてもらった。「臼井くんの責任ある意志が書かれていない」というものだった。そこに反論の余地はなく、ぼくはそれに何も応答できていなかった。今期の山本高之さんのプロジェクトを通して、「責任ある主体」としての自分と子どもについての考えを巡らせるうちに、この文章を書きたくなった。


メモ:
・「観察」と「編集」について。
・「変化する部分」と「変化しない部分」について。







2011/09/13

地面に埋めるか、海に流すか。

地味で、これといって重要ではない過去は、あるときふと彩りをおびることがある。
美しく、とっておきたい思い出は、思い起こしてみれば色褪せていることもある。

詳細な記録を文章化して保存することは、思い出の品々を地面に埋めることに似ている。
10年後のこの日に掘り起こそう、と約束するタイムカプセルのしきたりは、記憶というものはまるで保存可能なものであるかのように見せているけれど、ぼんやりした記憶は、思い起こすたびに意味を変える。

ある出来事を、掘り起こそうとすれば出会えるタイムカプセルにするのか、どこかを漂い続け再会の保証もないメッセージボトルにするのか。

地面に埋めるか、海に流すか。

2011/09/12

身近な言葉、でも?

昨日は《CHILDREN PRIDE 9.17》のために、警察に道路使用申請をしにいって、商店街や学校に挨拶回りをしにいった。児童館の館長と職員さんと一緒に。

上石神井児童館は駅前にあり、商店街のすぐ脇に入ったところにあるものだから、町会、商店街協会の一部になっていてすごくいい。

「今度児童館の行事で、子どもたちのデモ行進のようなものをやることになったんです」と挨拶をすると、
「デモ行進!?」と訝しい顔をされる。

団塊世代かそれより上の方は特に、「デモ行進」という言葉には敏感なようだ。ただ、それが「宿題を減らせ!」「引越しをさせろ!」という彼らの身近な言葉であることを話すと、クスッと笑ってしまう。そうやって笑ってもらえるのはいいのだけど、悩みの一つは、もしそこに「原発反対!」「民主党が◯◯◯!」みたいな政治的・思想的主張が出てきた場合、学校や児童館がそれを斡旋してると思われる可能性があって、それでは学校や児童館が困ってしまう、ということ。もしそういう(どういうのだかぼくもはっきりわからないけど)主張が出てきたときでも、出来る限り表現してほしいけれど。

彼らからどんなアイデアが出てくるか、楽しみであることにはかわりない。

2011/09/03

山本高之プロジェクト その始まりによせて

「未来を担うのは君たちです」と校長先生はよく言っていたけれど、当時のぼくたちにとって未来の姿をしている大人はどうにも頼りなかった。だからと言って、自分にできることはゲームをしたり遊んだりマンガを読んだりすることしかなかった。小学校の高学年になり、中学生になるにつれ、そのもどかしさは体の中にどんよりとした雲のように溜まっていった。

今を生きる子どもたちも、生活の中に見えない毒が入り込んでいることを知り、テレビの向こうで偉い人の発言が二転三転していることも知っているはずだ。見せられている世界に「裏側」があり、その「裏側」が混乱していることを感じているはずだ。とはいえ、彼らはその「裏側」に行く手段を持たない。行けたとしても仕方がない。そんなもどかしさを遠くのほうで感じながら、日々の遊びの中に入り込み、魔法使いやドラゴンを操ったり、モンスターを狩猟したりしてるんじゃないか。

アーティスト・イン・児童館2011年度招待作家、山本高之はその表現方法として子どもを相手にした「授業」を用いる。「問題」の説明、ワークシート、工作、発表というように、子どもたちが普段学校で経験している場面を再現していく。「山本先生」による厳しいダメだしもあるという。だがその授業は、子どもたちがこれまで傍観していた世界の「裏側」へと連れて行く。日頃見過ごしていたことをまぜかえすような世界へと誘う。山本はそうした子どもの体験を「いつもの授業みたいなかんじだろうと思ったら、よくわからないところに連れていかれてしまう感じ」と言い表す。 山本の作品とは、「授業」を反転させた仕組みと、戸惑いの中での子どもたちの思考の過程である。

だがそこには戸惑いだけでなく、世界の「裏側」を覗いてしまうような高揚があるのではないか。放課後の児童館で知らない大人と出会い、ワークショップという通路を通って知らなかった世界へと誘われる。2011年秋、アーティスト・イン・児童館は山本高之氏と共に、もどかしい日常に「裏側」への通路を開ける。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクト
《CHILDREN PRIDE 9.17》 /上石神井児童館
《きみのみらいをおしえます》/南田中児童館 
《まちのみなさんありがとう》/平和台児童館 
《CHILDREN PRIDE 10.30》/文京区内 某所 


2011/08/25

0824_ショーが終わって


子どもたちがファッションに触れるって、ぼくはなかなか難しい事だなと感じた。

感想を聞いてみると、緊張したけど出られてよかった、とか、次は自分も出演したい、とか、いい経験になってよかったと素直に嬉しい。難しいのは、スポットライトを浴びることができるステージなら他にもたくさんあるし、子どもが関わるファッションはたくさんある、ということだ。ぼくたちは、いや、《Form on Words》は彼らにそれ以上の問いを残すことができたのだろうか。いわゆる「子どもらしさ」「ファッションっぽさ」を乗り越えることができたのかな。それはこれからが楽しみなところ。

それ以上に、一般の人からモデルスカウトしたり、児童館の工作室を使わせてもらっていたりして、いろんな人が関わっているわけだから、あらゆるトラブルシューティングをしなければいけなかったし、心地良い場になるように設計しなければならない。それが結局、ことばに基づく新しい形につながっていくわけだし。

ありったけの反省と、確かな前進。

2011/08/15

20110814_ことばのかたち工房Pro


music by Shuta Hasunuma

Form on Words Fashionshow 2011.08.20 sat 16:00-

最近見ているSFアニメの中の、「未来が過去に影響するということだよ」というセリフがかなりぼくの気に入ってる。ぼくたちは10年,15年後の未来から、彼らの時空に干渉しているのだ、と考えるほど。

ところで、このビデオは子どもたちと一緒にファッションショーのモデルをスカウトしに行ったときの映像を編集したものだ。彼らと共に児童館から駅前のロータリーに出向き、街行く人たちを観察して「あの人いけそうじゃない?」「あの人優しそう!」と、話しかける人を判断していく。その中で、堂々としている人、突然話しかけてもよさそうな隙を残している人が見分けられるようになっていく。

翻って、自分のことを考えてみたらどうだろうか。駅から家に帰る時、ほとんど自分のことしか考えていないし、子どもに話しかけられたらもちろん驚くだろう。疲れているときだったら、イライラするかも知れない。そんな風にここを自分が歩いている、という別の時空を垣間見てしまった。

人々が街を歩く、という何でもない出来事のなかに、人々の生き様が現れてくる。そんなことを気にしているかはわからないが、彼らはまるでスパイ・ゲームのようにモデルスカウトを楽しんでいた。

時間とは、積み木のように積み上げられるものではなく、網にからむ蔦のように、複数の軸の間を行ったり来たり、出たり入ったりするものなんじゃないか。ぼくは彼らの姿に自分の過去を投影しているし、もしかしたら彼らはぼくやその他の大人に自分の未来を投影しているかも知れない。

そんなこと考えながら、ショーの5日前を迎える。

Form on Words Fashionshow 08.20 sat 16:00-

2011/08/03

0802_ことばのかたち工房Pro


《ことばのかたち工房Pro》が始まっている。「ファッションブランドをつくる」というこれまでのプロジェクトの中で、最も難易度の高いプロジェクトだ。しかし、面白いことがおきていて、大人が真剣に衣服制作をし、子どもたちがその様子を記録したり、街の中で宣伝をしたりしてマネジメントしている。こんな関係が生まれるとは思っていなかったから、嬉しい驚きの中でぼくはこの活動にいま向き合っている。

その中で思うのは、児童館って、「児童」の「館」と銘打たれている以上、そこにいる0~18歳の人は、どうがんばっても「子ども」になってしまう。「もう子どもじゃない」という自我が芽生え始めている人でさえ。だからある程度の年齢になると児童館には来なくなる。

中高生対応というのも、中学生にとってはカードゲームやPSPをだらだら続けていてもやっかまれない場所がほしいだけなのかも知れない。そこに企画を突っ込んだりしても、彼らにすれば当然それはうざいだけだ。

大人がたくさん児童館に来て、古着が山積みになっていて、なにやら議論が行われている。興味を持って関わろうとする子たち、特に10歳以上の子にぼくは「仕事」をオーダーする。ポスターを書いてくれだとか、モデルをスカウトしてきてくれだとか、ビデオを撮ってくれだとか。頼まれた彼らは、「どうやってやればいいのか教えてくれ」とか「こういうふうにしたい」とか、それなりに受け応えをしてくれる。本当なら仕事なのだけど、「児童館」という場が、遊びと仕事が混ざった状態にしている。

これでいいのだ。
これから先が楽しみなのだ。

2011/07/13

7月17日(土)オープニング・ミーティング



アーティスト・イン・児童館2011[予告編]
オープニング・ミーティング

ファッションショー、パレード、フェスティバル!?2011年度「アーティスト・イン・児童館」の新たな企画がいよいよ始動。多彩な招待作家3組による作品プランを紹介し、その中でいかに遊ぶか、来場者を交えてアイデアを広げるオープニング・ミーティングを開催します。プロジェクトを一緒につくるサポーターについての説明も実施。入場無料、予約不要です。子ども、地域、アートに関わる活動にご興味をお持ちの方、お気軽にご来場ください。
ゲストアーティスト:
西尾美也/山本高之/Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)
※中崎透さんは都合により出演できません。ご了承ください
会場:アーツ千代田3331 東京文化発信プロジェクトROOM302
日時:平成23年7月17日(日) 18時~19時30分
   ※19時30分から20時まではサポーター登録をしていただける時間となっております
お問い合わせ▶
アーティスト・イン・児童館 実行委員会 事務局
〒178-0064 東京都練馬区南大泉3-14-27
mail: info@jidokan.net
tel   : 080-1207-1395(担当:臼井)
主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人 東京都歴史文化財団)、アーティスト・イン・児童館実行委員会

2011/05/27

2011/05/14 ことばのかたち工房展 最終日



ことばのかたち工房展、ご来場いただきましたみなさま、ありがとうございました。
これから西尾さんの新しいプロジェクトが始まります。リリースまでしばしお待ちを!

2011/05/02

2011/04/29 山本プロジェクト始動


4月27日-29日、山本高之さんが東京滞在中に、打合せしたり人にあったり、がががががっと企画の大枠をつくった。
27日はアートポイント計画ディレクター森さんと呑み、28日はリサーチで関わってくれる石幡愛さんと、29日は練馬区立美術館の真子みほさんとミーティング。打ち合わせづくしでおつかれだったので、最後は秋葉原のインド料理やでカレーとビール。



彼は、子どもたちの前で"先生"のように振舞うらしい。

子どもは"先生”との関わり方を知っているから、学校の作法で彼の話を聞く。そのなかで言われたことをこなしていると、どうも学校の授業と違う。何かが”理解できる”わけでもないし、特定の”技術が身につく”わけでもない。彼曰く「どこかよくわからないところ」に連れていかれてしまうと。

山本さんは、"学校の先生"という確立されている作法を活用してアートワークをつくる。それは社会の仕組みを反映しつつ、それを無意味なものに還すためなんじゃないかと思う。意味とは自明のものではなくて、無意味から見出されるものだし、状況によって変わるものだと思う。山本さんは「自分で無意味から意味を見出すことの(しんどい)自由」の領域へと、子どもたちを連れて行く。

アーティスト・イン・児童館では、このことを共有しつつ、"学校の先生"という児童館になじまない振る舞いをどう引き受けるかが焦点になる。スタートからゴールまでがはっきりしている山本さんの制作プロセス。それに対して、制作の過程にどんどん巻き込んでいくアーティスト・イン・児童館の方法論。山本さんの方法論をどうやって拡張するか。ここが見所です。

2011/04/28

2011/04/24 西尾美也新プロジェクト

24日(日)は、東大泉児童館のレジデントアーティスト西尾美也と打ち合わせ。《ことばのかたち工房》の3年間の経歴を踏まえて、新しいプロジェクトに着手します。

まだ全貌は明かせないけれど、《ことばのかたち工房》で培われてきた古着を立体にする技術。様々な「かたち」を生産し、シリコンバレーのような工場地帯をつくります。児童館だけじゃなく、敬老館、地区区民館なども視野に入れて。

5月14日「ことばのかたち工房展」関連イベントの際に、全貌が公開されます。

2011/04/25

2011/04/25

今日は一日何にも考えずに、だらーっと過ごしている。コンセプトブックが無事入稿されて、ちょっと一息です。明後日には納品。

昨日は、ナデガタの映画『学芸員Aの最後の仕事』の主役フェイス山田役をやっていた前田香織さんがハウスマッカリに遊びに来てくれました。事務局ミーティングもあってみんなもいたし、東方さんと梅ちゃんを誘ってお好み焼き食べました。が、みんな焼き方しらないのね。

福島第一原発から3キロのところに暮らす前田さんは、ぼくと同い年。府中の友人宅を間借りして、深夜のピッキングのアルバイトで生計を立てているんだって。ご両親は加須市の避難所での生活を続けているそう。思いがけず、アー児の活動を手伝いたい!と言ってくれたので、どんどん遊びにきてほしいなと思います。

被災地の状況が大変なことは、ぼくも現地の視察を通してほんの少しだけ知っています。実は、先々週に宮城県のほうに行ってきたんです。東北での表現活動のためのネットワークをつくる活動(仮称:Art Volunteer Network)に参加することになって、そのリサーチで。亘理町、名取、塩竈などを巡ってきたけれど、被害の範囲のその広さを肌で感じました。

今、人々には「表現」が必要だと感じています。話すことや絵を描くこと、編み物や縫い物など、何でもいいんだと思います。世界と自分との関係を手や身体を使って編みなおしていくことができれば。というか、このことは今に限らず、これまでもこれまでも考え、実践する事なのですが。

2011/04/22

2011/04/21 ブック入稿+空鼠

久しくブログを更新せず。
コンセプトブックがいよいよ入稿。来週の水曜日に納品予定です。

今日は高校の後輩であり友人である村上慧くん、橋本巧くんたち5人がやってる共同アトリエ空鼠に遊びに行ってきました。3階建てのビルで、1Fがギャラリー/アトリエ。2Fがオフィス。3Fが寝室。なんと彼ら一つの部屋に単管で2段ベッドを組んで、そこにみんなで寝てるのです。ほんとにネズミみたい。生態系的な意味で面白い場所です。





魅力的なこのスペース。アー児チームも遊ばせてもらおう、ということで、5月に一緒になんかして遊ぼうと思っています。乞うご期待。

2011/04/03

2011/04/03 Yazmany Arboleda

Today , Yazmany Arboleda came to Tokyo and HouseMackari.
He is very kind person that teaching English to us.

We talked about art , society , and present situation in Japan.
He is thinking a many things honestly.

I want to do some project with him, in children's house ,by our coordination.

: )

2011/04/02

2011/04/01 移動・移転・移住


東京にどれだけの人が疎開して来て、どんな生活するのかを考えてる。でも一方で、東京も離れたほうがいいんじゃないかとも思ってる。

今回の震災で困っているのは、想像力が乏しくなっていること。「当面のところ安全です」みたいな報道を信じようとしているから、東京を離れる、移住するということを想像できなくなってる。と、書いていて気づいたけど、この災害以前から東京から離れるということを想像できなくなっていた。これまで3年間地元の練馬でプロジェクトを続けてきたし、これからもーとか考えてたし、今もそれにしがみついてるところ。日常を守ろうとしてるんですよね。でも、移住先と移動手段は探せばあるんだから、全く想像できないはずがない。今、被災地では16万人の人が避難所生活を送っている。別の避難所に写る人や、移住する人も多くいるはず。移住するということを想像しリアルに感じる手段がほしい。

よく考えれば、去年の夏ごろから、ぼくのキーワードは「移動」だった。移動することの想像力を子どもと共有できるかどうか、これにチャレンジしたかったのだった。

2011/03/31

大久保児童館によせて

大久保児童館に絵本を届けに行った。そのことを書こうと思う。

大久保児童館との出会いは、2年前に「大久保アートプロジェクト」の企画をしている小山さんという方から「大久保児童館で〈アーティスト・イン・児童館〉を」ということで声がけしていただいたことから始まる。結局その企画は実現しなかったのだが、歌舞伎町の裏手に多国籍の子どもたちが集まる場所があるという話は印象に残っていた。

それから一年も立たないうちに、大久保児童館のことがまた頭に浮かんできた。キッカケは演劇ユニット「Port B」の高山明さんから、新作《完全避難マニュアル》の企画に呼んでもらったことだった。都市の様々な場所をめぐるツアーパフォーマンスという形式の演劇をつくる「Port B」の新作は、インターネットの診断サイトから山手線各所に設けられた「避難所」に誘うというもの。高山さんからのオーダーは、出会いカフェや喫煙所、モスクやお墓、シェアハウスやネットカフェなど、人が「ある時間」を過ごす場所が設定されている。その中に「子どもの居場所」をつくりたいという内容。それを聞いて思い浮かんだのが、新大久保駅から徒歩10分のところにある「大久保児童館」だった。

歌舞伎町の裏、コリアタウンの奥。保育園、ことぶき館が併設する築40年の複合施設の3階にこの児童館はある。中国、韓国、タイ、フィリピンなど、アジアを中心とする多様な国の子どもたちがこの場所には集まっている。マンガを読んだりボール遊びをしたりできるところは普通の児童館なのだが、夕方からは各国の言葉に合わせた日本語教室が行われている。

美術家の蓮沼昌宏さん、担当コーディネーターの佐脇さんとともにアイデアを出し合い、児童館職員の沖さん、美濃部さん、館長にも参加してもらいながら企画を作っていった。この児童館は2箇所以上の「避難所」をめぐった観客のみ入場が許される場所となり、そこではこの《完全避難マニュアル》をテーマにした絵本『新山手線ものがたり』をつくることになった。観客とスタッフがこれまでにめぐった避難所のことを児童館の子どもたちに語り、絵と言葉を書くという想定。しかしいざプロジェクトが始まってみると、制作に没頭する大人と、その周りで手伝ったり茶化したりする子ども、という関係が出来上がっていった。小学校1年生の子たちが特に興味をもっち、中には日本語がまだ上手く扱えない子も多くいた。

この企画の中でひときわ目立っていたのは、初めて会った時から蓮沼さんやぼくによじ登って離れなかったHくん。彼は絵本の企画が始まって以来、とにかく表現をしまくった。絵の具やシールや木工ボンドや粉を思うままに操り、人の絵に手を入れ、紙が破れるまで筆をこすりつけ、ダメ!と言われることも難なくやってのけた。Hの表現はとどまるところを知らず、他の子どもたちも彼に触発されて、手に絵の具をつけたり、紙に直接チューブを絞たりし始めた。Hやその周りの子どもたちが観客やスタッフが書いている絵に手を入れるものだから、キレイにまとまった絵よりも、彼らの遊びの痕跡を残した絵が多くなった。ぼくたちはこの企画で、子どもたちの日常に小さな裂け目をつくりだしていたし、同時にぼくたちの想定を揺るがされうろたえを体験していた。そしてそのうろたえは、想定を超えるキッカケとしての価値を持っていた。

ところが、期間中《完全避難マニュアル》は観客とリピーターが増え続け「新大久保駅の避難所」としての最後の日(11月26日)は、30人近くの観客がこの場所に押し寄せた。絵本をつくっていた小さな部屋には入り切るはずもなく、ホールでボール遊びを提案した。「カイセンドン」と言われる戦争を模した遊びも、異様なほど盛り上がった。しかしその盛り上がりは、描いていた絵を崩されるうろたえや、突然フィリピン語で始まった喧嘩に出会うような小さな驚きを、全くかき消してしまった。Port Bの作品の、そういう少し説教くさい感じは嫌いじゃなかったのだが。この児童館との関係はひとまずここで途切れていた。

この途切れを編み直すために担当の佐脇さんと一緒に、散らかった絵本をまとめて綴じることにした。放っておけばそのまま終わらせることもできたが、どうにもそれはしたくなかったのだ。時間も予算もないので編集は一切せず、80枚以上の絵をスキャンしてサイズを統一して出力し、駅ごとにまとめて綴じた。そして絵本の原本は、今日3月30日子どもたちの手に渡した。先の震災で中国や韓国に戻ってしまった子が多く、3人にしか手渡せなかった。「避難所」と名付けていた場所から別の場所に「避難」するなんて皮肉だが。表現をしまくったHは自分が描いたものと自分が気に入ったもの(蓮沼さんやぼくのものも含まれる)を30枚近く選びだし、大きな袋に入れて持ち帰っていった。Hは目に止まったものはじっくりと見渡し、何度も絵を見返していた。「これおれのだ」とあの時間を思い出しながら、「これ誰が描いたんだっけ?」とあの場所に来た人たちとの関係を確かめながら、丁寧に選んでいった。



少し長いテキストになったが、最後に。

この児童館は、明日3月31日で閉館する。総合福祉センターに統合され、老朽化したこの建物は取り壊される。都市を象徴する場所新宿の裏手にあり、様々な国の言葉を飛び交わせながら子どもたちが遊ぶこの場所は、明るい未来を見せてくれる場所だった。閉館と取り壊しは本当に寂しい。《完全避難マニュアル》のスタッフとして「避難所」と勝手に呼んでいたが、震災のあとには子どもたちに変わらぬ日常を与え、迎え入れるこの場所は紛れもない「避難所」になった。しかし、子どもたちは震災後に自分の国に一時的であれ帰国したし、この場所を利用していた子どもたちは閉館後、別の児童館、別の遊び場へとちりぢりになっていく。絵本のことと地震のことと閉館のことを無理やり繋げるつもりはないが、閉じてしまい、無くなってしまうもの、途切れてしまうことをいかに引き受けるかを問われている気がしているし、綴じた絵本はそれを再び開き、編み直し、組み立て直す何かになると希望を持っている。Hが絵をもって帰ったことは、その希望を開いている。

2011/03/26

2011/03/25 大久保児童館と中村児童館

《完全避難マニュアル》で絵本をつくって以来、4ヶ月ぶりに大久保児童館を訪れた。あの時、絵を描くというよりも、部屋中で全身で表現をし続けたハヤトは、少し背が伸びて顔も大人びていた。みんな以外にも絵本のことやぼくのことを憶えてくれていたのが嬉しかった。大縄跳びをしたり、バレーボールをしたりして遊んだ。

もうすぐで閉館になって、建物もなくなってしまうあの児童館の人たちに、僕らが残せることといえば絵本を綴じて届けることぐらい。「いろんな国の子どもたちが集まる面白い場所が歌舞伎町の裏手にあった」と過去のことになってしまうのがとても寂しい。月曜日に絵本を届けにいくのが楽しみだ。

ひとしきり遊んだ後、中村橋で降りて中村児童館へ。安藤さんと地震の後のこととこれからのことを話したくて行ってみたら、もうすぐ高校二年生になるノブとタクムがいた。4月の「なかなかTIME」も時間が短くなってしまったみたいで、実質中止。約束をしなくても行けば誰かがいて、いろんな人と友達になれて、語り合うことができるこの場所と時間がなくなることをとても困っていた。

「同じ学年で集まっても話広がらねえじゃん。いろんな年の人がいるからここに来てるんだよ」と言うタクム。これにはノブもうなずいていた。

ため息をつくノブ。あーあ、とあきらめムードなタクム。ふと「じゃあ、夏、キャンプにでも行くか!いろんな人誘って」とらしからぬ提案をしてみたら、思いの外2人は食いついた。彼らともう1人、ショーンという男を加えて、16歳と23歳で夏キャンプ実行委員会をつくることに。なかなかTIMEの中止が功を奏して、面白い話が立ち上がった。


2011/03/23

2011/03/23 コンセプトブック原稿


活動に関わっていただいている方にぜひコメントを頂きたいと思い、コンセプトブックの原稿を期間限定で公開します。「こういうこともうちょっと書いたら?」「こういう内容はいる/いらないんじゃない?」など気軽にコメントください。よろしくお願いします!





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アーティストの制作×子どもの生活 ―協働の基盤をつくる―

臼井隆志/アーティスト・イン・児童館プログラム・ディレクター






アーティスト・イン・児童館

 〈アーティスト・イン・児童館〉とは、子どもの遊び場である児童館をアーティスト(現代美術家)の作品制作のための作業場として活用するプログラムです。
 2008年にスタートしたこのプログラムでは、練馬区立東大泉児童館に西尾美也さんを招待し《ことばのかたち工房》(2008-2010)を、北澤潤さんを招待し《児童館の新住民史》(2009)を実施。2010年には中高生対応事業を実施する練馬区立中村児童館に拠点を広げ、Nadegata Instant Party(中崎透さん+山城大督さん+野田智子さん/以下:ナデガタ)を招待した《Let’s Research For Tomorrow》を展開しました。
 児童館で遊びたい子どもたちとつくりたいアーティストが出会い、別々の目的をもちながら協働して作品をつくり、活動をふりかえってそれまでの経験を意味付けていく。この一連のプロセスを通じて、子どもとアーティストのほか、児童館の職員やそこに関わるあらゆる大人たち、運営する私たちが新しく学び合う関係性をつくる基盤として、このプログラムを提案しています。

 児童館は、学校を終えた子どもが放課後に利用する遊びのための施設です。そこでは、ドッジボールができ、マンガを読むことができ、冬は暖かく、夏は冷たい水を飲むことができます。そこに行けば誰か友だちがいて、新しい友だちをつくることもできます。開館時間中の出入りは自由です。児童館に行く/行かない、卓球をする/しない、料理教室に参加する/しない…これらのことを選択しながら、子どもたちは放課後の生活を送っています。
 しかし、子どもたちの生活は彼らの選択だけでは成り立っていません。学校に行かなくてはならない、塾や習い事に行かなくてはならない、と決められていることも多くあります。児童館も決められた選択肢のうちの1つになっていることもあるでしょう。そうして子どもに用意された選択肢のほとんどは、子ども(あるいはその親)の目的を受け入れるためにつくられています。

 〈アーティスト・イン・児童館〉を考案する以前に子ども向けワークショップのスタッフや児童館でのボランティア活動をしていた私は、こうした子どもを取り巻く環境に疑問を持っていました。世の中には、私たちのあらゆる目的を受け入れるサービスが用意されているわけではないし、何かを実行するためには他者の目的と折り合いをつける工夫が必要です。子ども同士が遊びやスポーツなどを通じて関係をつくることは大切だけど、子どもと遊びやスポーツとは別の目的を持つ大人が出会い、試行錯誤することも重要でしょう。しかし、多くの子ども向けサービスの中では、そのサービスを提供する大人以外との接触はほとんどありません。
 こうした環境への疑問から、〈別の目的を持つ大人〉の1人として、あるアーティストを児童館の子どもたちに引き合わせることにしました。さらに、彼には子どものための作品ではなく自分のための作品をつくってほしいとオーダーしました。このオーダーのねらいは、大人が子どもを受け入れる〈向き合い〉の関係だけでなく、受け入れつつ自分の目的を達成する〈寄り添い〉の関係をつくることです。子どもたちはアーティストの制作行為の中に遊びを見出すかも知れないし、アーティストは子どもたちの遊びの中に制作のヒントや素材を見出すかも知れない。別々の目的をもちながら、1つの場を共有し、モノゴトが生まれていく。そんな風景を見てみたいと、私はこの出会いに希望を込めました。 それが〈アーティスト・イン・児童館〉の始まりです。





〈リサーチ〉〈制作〉〈アーカイブ〉




 〈アーティスト〉とは、モノを作ったり、パフォーマンスをしたりして作品を発表し、言葉を超えたコミュニケーションを持とうとする人たちのことです。美術、音楽、演劇などのジャンルの中で、〈アーティスト・イン・児童館〉では特に、公共空間や日常の行為を素材に活動する現代美術家に焦点をあてています。
 児童館という子どもたちの生活圏で、子どもとアーティストが出会ってきたこれまでの活動をふりかえってみると、そのプロセスの中に3つのセクションを見つけることができます。1つはアーティストとプランを考える〈リサーチ〉、2つめは子どもを巻き込みながら実施する〈制作〉、3つめは活動の記録や生まれた作品を公開する〈アーカイブ〉です。それぞれのセクションで子どもの生活とアーティストの創作活動が交差している場面を見い出してきました。

想像力を揺り動かす〈リサーチ〉
/Nadegata Instant Party《 Let’s Research For Tomorrow》


 〈リサーチ〉のセクションを重視したのが、練馬区立中村児童館でアーティストユニットNadegata Instant Partyが作品のプランを考えるプロジェクト《Let’s Research For Tomorrow》です。中高生対応事業を実施するこの児童館で、テレビ番組や映画をパロディーにしながら〈出来事〉をつくりだす彼らとともに、児童館から遊びの域を超えてみたいというのが私の動機でした。まずは中高生との関係づくりが重要だと考え、Nadegataのメンバーと共に遊んだり行事を手伝ったり職員や館長と会話をしたりしながら〈リサーチ〉のためのプロジェクトを展開しました。
 児童館に出入りする中高生は何かを成し遂げることを目指すのではなく、のんびり過ごすことを目的としていて、小さな喧嘩や恋愛など甘酸っぱい人間模様を繰り広げながら、スポーツや音楽、お喋りに興じています。この状況を面白く読み取ったナデガタは、《全自動児童館》というプロジェクト・プランを考案しました。児童館で日頃行われている遊びやバンドの活動を、演劇家や音楽家とのコラボレーションで[パフォーマンス]に見立て、[入場料5000円]のフェスティバルをつくりだすというアイデアです。
 現状から飛躍したこの内容ですが、2011年2月26日にこのプランを発表するイベントでの、メンバーの山城大督さんと児童館に通う18歳の少年とのやりとりに一つの光明を見出しました。
「例えば、ちょっと想像してみて。チケットぴあで「児童館で5000円のフェスがあります」って書いてあったらどう思う?」という山城さんの問い掛けに、半ば無理やりステージに上げられた彼は「いや、絶対誰も来ないでしょ。少なくとも友達は買わない。値下げしろって言われるから。」と答えました。
「そうやな。でもやり方によっては、友達関係のその外側の、東京中、日本中、もっと言えば世界からお客さんが来るかも知れへんやん」
 この提案に対して少年が何をイメージしたかはわかりません。インターネットで児童館を会場にしたフェスのチケットが売られている様子を、うっかり想像してしまったのではないでしょうか。ぼくが見た光明とは、このやりとりと〈リサーチ〉のプロセスが生み出した、起こってもいない出来事の〈想像〉です。アーティストが児童館に通いながら様々なイメージをめぐらせ、児童館の中に「ここで見たことない事が起こるかも?」という気配が漂っていきました。あるイメージに輪郭を与え現実をつくる〈制作〉のプロセスへと移行するには、〈想像〉を伝播させる関係性を育む〈リサーチ〉が重要な役割を果たします。

遊びと制作を転換する〈制作〉
/北澤潤《児童館の新住民史》


 アーティストが提案するイメージを具体的な形にしていく〈制作〉のセクション。ここでは、アーティストの制作行為と子どもたちの遊びが交わり、当初のイメージからズレが生じ、予想外の展開を見せていきます。
 ある場所の日常に寄り添う[島][村][民]をキーワードに別の日常をつくりだす北澤潤さんのプロジェクト《児童館の新住民史》では、北澤さんとスタッフが自らを[児童館の新住民]と称して、出会った出来事をA5サイズの[手記]にひたすらスケッチと文章を書きこんでいきました。児童館の[住民]である子どもたちや職員の日常の姿や、[新住民]との交流の軌跡を描き出す仕事道具であったこの[手記]ですが、次第に子どもたちが「わたしも書きたい!」と言って彼らからペンと紙を受け取り、[手記]を描き始めます。この子どもたちの意志は、[新住民]とか言うヘンテコな大人と関わりたい、という欲求が変換されて出てきたものでしょう。ペンを奪ったり、紙を奪ったり、書くのを邪魔したりして試行錯誤の結果編み出された関係づくりの方法です。しかし、その方法は図らずして、[住民]から[新住民]へ、つくり手の立場への転換を生み出していました。
 もちろん、子どもたちの関わり方はこのような積極的なものだけではありません。「意味分かんない」と言って関わらない子も当然います。子どもたちの反応を期待しても、何も返ってこないこともあります。そもそも、遊びは形ではなく楽しみを味わう時間と経験を生み出すことを目的にしています。一方で美術は、絵画、彫刻だけでなく、映像、言葉などの多様なメディアを用いて作品を残します。完成するまでの時間が苦しいものであっても、形にして生産することを目的にしています。その二つの目的の間にズレがあるのは明らかです。
 しかし、その大人が作っているモノやその環境を見てなにか楽しそうなことがありそうだと直感し関わりを求めたとき、アーティストと子どもの双方に試行錯誤が必要になります。アーティストは子どもたちの欲求に寄り添って、予定していた制作の方法を変えていくことが求められ、子どもたちは自分の欲求とアーティストの要求の間で折り合いを付けながらその場を楽しむ方法を編み出すことが求められます。ズレながら形づくられていく北澤さんのプロジェクトでは、遊びの欲求と制作の欲求が寄り添いすすむルートを模索しました。そして、そのルートから生まれた400枚以上の[手記]は展覧会や記録集を通じて、それまでの活動の時間とともに〈アーカイブ〉として児童館の外へと開かれていきました。

過去とのつながりを更新する〈アーカイヴ〉
/西尾美也《ことばのかたち工房》


 これまで一緒に活動してきたアーティストは人との関係性を作品の中心に捉えているため、写真や映像による〈アーカイブ〉を発表することが多くなります。活動に関わっていた子どもや地域の人びとに活動の経験を想起させ、「過去とのつながり(アイデンティティ)」を更新するのが〈アーカイブ〉のセクションです。 西尾美也さんのプロジェクト《ことばのかたち工房》の活動記録集を見た当時10歳の少年が、その中に知っている人をみつけ、「あ!これあそこの花屋のお姉さんじゃん!」と驚いているのを見たことがあります。児童館で遊びでつくっていたモノを、知っている人が身につけている。なぜ?と疑問を持ったでしょう。
 人間の装いの行為とコミュニケーションを操作する西尾美也さんは、日頃身につけている[仕事着]に隠れていた物語([ことば])が[かたち]になったら…もしかしたらありえたかも知れない世界を、スタッフや子どもたちの想像からつくり出す仕組みを考案しました。 できあがった[ことばのかたち]をインタビューした人びとのもとに届け、それを身につけてもらった写真を撮影します。普段の[仕事着]と[ことばのかたち]を身につけた姿を対比した2枚の写真が作品になります。そして、その写真を公開する〈アーカイブ〉は、作品と子どもたちの間に再会のルートを導き出しました。
 数年後、彼が「児童館で古着で何か作ったな、あれはなんだったんだろう?」とふと思い出したとします。その解釈は彼の年齢や心境に応じて変わっていくことでしょう。現代美術はやはり〈分からない〉ものです。だからこそ、私たちの生活の中にある〈分かったつもりになっているもの〉を〈分からないもの〉として見せ、問いを投げかけることができます。このプロジェクトに関わった子どもや大人は、この〈分からないもの〉の思い出を持っています。その思い出は何度も新しく解釈をすることができ、それによって現在をいかようにも意味付けることができます。〈アーカイブ〉は解釈の手がかりを残しつつ明確な意味を示さない、いじわるだけど自由な場所であり、活動に関わった人びとの「過去とのつながり(アイデンティティ)」を更新するキッカケとして存在し続けます。
  部屋の中で記録集をふと取り出したとき。偶然通りすがりの展覧会に自分が関わった作品が飾られているとき。Googleで自分の名前を検索したら写真がヒットしたとき… 展覧会や記録集、ウェブサイトなどの形態をもって移動可能になった〈アーカイブ〉は、子どもたちと再会し、現在と当時の記憶をつなぐ様々な経路を持っていると言えるでしょう。



X・イン・Y ―組み替え可能な協働の基盤




 〈アーティスト・イン・児童館〉は、〈リサーチ〉で場の想像力を揺り動かし、〈制作〉の過程で遊び手とつくり手がゆるやかに立場を入れ替え、〈アーカイブ〉によって多様な人びとと共有し更新できる記憶を生み出します。児童館で居合わせた子どもと大人(アーティスト)の間に新しい関係が開かれ、その周囲にもゆるやかに連鎖していく、人びとの試行錯誤のプロセス、学び合いの関係性を生み出す基盤です。そしてそれは例えば、児童館の代わりに「老人ホーム」、アーティストの代わりに「ヒップホッパー」(=〈ヒップホッパー・イン・老人ホーム〉)というように、組み替えることが可能です。
 現在、現代美術の分野では、人々と積極的に関わりながら新しい表現を試みるアーティストたちが続々と現れています。一方で、教育、福祉の分野でもワークショップなどの活動のスタイルを用いた事業が次々に作られています。これらは近代がつくりだした分類・管理の社会への違和感から生まれた代替案であるといえるでしょう。こうした文脈の中で〈アーティスト・イン・児童館〉の活動も生まれ、育まれてきました。
 私たちは今、生活を支える仕組み自体を組み立て直していく変革期を迎えています。これから先、ひょんなことから考え方や生活の仕方が違う人達と居合わせ一緒に何かをつくっていくような、他者とのゆるやかな協働の機会に多く遭遇することになるはずです。私はこれまでこの活動を通じて、子どもとアーティストという別々の文化を持った人びとの間に立ち、その交点をつくるために試行錯誤を繰り返してきました。当然その試行錯誤は、アーティストにも子どもにも児童館の職員にも当事者として要求されます。こうしてこれまで出会わなかった人びとと共存の方法を編み出すプロセスは、私にとって重要な充実した時間です。 
 お互いのものごとのやり方を共有しながら、部分的に目的を共有して協働する。〈アーティスト・イン・児童館〉は、活動の当事者が協働の方法を学びとっていくための基盤であり、分類・管理の社会から脱分類・協働の社会へと組み替えていく1つの方法であると考えています。この活動に限らず、こうした〈組み換えの方法〉を提案する事業が持つ可能性と今後の展開を、本書を通じて共に考えていただければ幸いです。



2011/03/19

2011/03/18 Lonely Girl/Sexual Healing





Marvin Geyeの曲が元ネタになって、佐東由梨、ECD、加藤ミリヤにつながってる。


2011/03/17

2011/03/17 帰り道



今日は渋谷でコンセプトブックの打ち合わせをして、そのあとしばらくぶらぶらして帰った。いつもより渋谷は穏やかで節電のためか大人しく見える。山手線を乗り継いで池袋へ行って、カフェに入って仕事をして、また電車に乗ってマッカリに向かう。

西武線が計画停電のために混み合っていたので、電車にのるのが面倒になって、大泉学園で降りた。行きつけの古本屋「ポラン書房」に行って、《ことばのかたち工房展》のフライヤーを届けてきた。ついでに安部公房の『榎本武揚』を買って、歩いて駅の反対側へ。

わらべの前を通り、いなげやの前を抜けて、トレントの角を曲がったところで、団子屋の息子カリブに会った。ずいぶんと背の伸びたあいつは声変わりも始まっていて、話し方も幾分賢くなっている。

「よう、おまえ地震のときどこにいた?」と世間話をふってくるカリブ。
「大学にいたよ。」とぼくは答える。自分の大学ではないけど、東大にいた。
「大学で何してたの?」
「講義聞いてた」
「なんの?」
「なんでもいいじゃねえか」

道端で会話をすると、細かいことを矢継ぎ早に質問されることが多い気がする。大人が普段何をしているかを知るチャンスだと思っているのかな。

「で、おまえは何してたの?」
「え?おれ?おれね…大便してた…。」

やつは一度目の大きな揺れが来たとき、トイレの中にいたらしい。驚いてブツは引っ込んだそうだが、なんともカリブらしくて笑った。あほだからなあいつ。そんなあいつも4月から中学生になる。

「ねぇ、また今度鬼ごっこしようよ」
「あぁ、いいよ」
「いつ?」
「じゃあ、29日の火曜日」
「うん、わかった。じゃあミドリ(公園)でね。」

その昔、アーティスト・イン・児童館を始めるまえに、東大泉児童館で「いつものまちだっせん作戦」と称してダンボールばらまいたり古着でユニフォーム作って鬼ごっことかしてたのを、彼は覚えていて、彼にとってはそれがぼくとの思い出なのだ。久しぶりに、鬼ごっこでもするか。29日なら、できるはず。暇そうなひとを誘おう。

2011/03/16

2011/03/16

東北で大きな地震があってから、今日で5日になる。

ここ数日、建物やカラダがこわれてしまうことを、つい想像してしまう。正確に言えば、頑張って想像しようとしている。ネットやテレビで見る映像には、どうにもリアリティを見いだせなくて。頭の中をめぐってるのは、レゴブロックがカチャカチャ動くイメージと、ラミエルの解体―再生のイメージ



たぶん、考えたいのは、決して壊れないモノのことではなく、バラバラにして何度でも組み立てなおせるモノのこと。今回の騒動の中でこの解体-再生のイメージがぼくの頭の中でぐるぐるしている。


そんな今日は、成田空港に行ってきた。パートナーがお姉ちゃんの結婚を祝いにチリへと飛ぶ(お姉ちゃんの旦那さんがチリ人)ので、その見送りに。7月に赤ちゃんも生まれる予定で、もう名前も決まったんだって。空港にはたくさんのひとが寝袋を敷いて充電器をつないでPCのモニタを見ていた。今回の震災で、帰れなくなった人たちなのだろうか。
そういえば西尾さんも今、ナイロビ・アート・プロジェクト第三弾で頑張っている。咲子さんは生後五ヶ月の赤ちゃんと一緒だとか。
ぼくの身近な人達と遠くの土地と身近で遠い地震というバラバラの事柄が、たしかにリンクしているのを感じた。


2011/03/07

《ことばのかたち工房》展 3/25~

3月25日から、東大泉児童館にて、ことばのかたち工房展が開催されます。26日17:00~オープニングパーティーです!
なお、児童館という会場の特性上、ご来場は予約制になります。
下記内容をご記入の上、メールにてご連絡ください。

==
宛先:info@jidokan.net
件名:ことばのかたち工房展 予約
内容:
1.お名前:
2.電話番号:
3.  ご来場時間:
==
皆様のご来場、心よりお待ちしております。

2011/03/04

2011/03/03 ここ数日

最近は、先週の土曜日にNadegata Instant Partyの発表イベントを終えて一区切り。現在は《アーティスト・イン・児童館 コンセプト・ブック》を鋭意作成中です。ご期待ください。3月25日(金)発行予定。ちなみにその日は《ことばのかたち工房展》のオープンでもあります。

写真はプロジェクタで「ごっつええ感じ」を見てるとこ。


3月8日には、東京文化発信プロジェクト室と2011年度プロジェクト内容の協議。
3月9日には、練馬区役所での活動紹介。





ところで、「芸術は分からない」っていうけど、それでよくて、分かっちゃったらマジで面白くないと思うんです。「分かったふり」をしてしまわないように、特にマネジメントの人間はコレを気をつけなきゃいけないと。

2011/02/21

Let's Research For Tomorrow 成果報告+新規事業プラン説明会!

2月も後半になり、寒い日と暖かい日が交互にやってきております。
時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

さて、私たちアーティスト・イン・児童館実行委員会は、来る2月26日土曜日(17:30-18:30)に、2010年度に練馬区立中村児童館に招待しているアーティストユニット「Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)」より、今年度の成果報告と来年度の新規プロジェクトプラン説明をするイベントを実施させていただく運びとなりました。

下記にチラシを添付いたしましたので、ご確認のうえお気軽にご来場ください。

みなさまのご参加、心よりお待ちしております。

アーティスト・イン・児童館プログラムディレクター
臼井隆志


2011/02/15

2011/02/14 デスクワーク


バレンタインデーということで、「おばけのホーリー」の画像をもらったので動画検索していたら「はじめ人間ギャートルズ」にいきあたり、これに登場する「死神」がめっちゃかっこいいことを知ったのでした。





そんな今日はデスクワーク。三月に企画を詰め込む寸法で、今日は5つの企画を考えていました。1日にこんなに考えたのは始めてかも知れない。ふりしきる雪の中、珈琲を飲みながら考えた企画はなかなか充実しています。まだ予算のこととか穴だらけだけど。

公式に発表できるのが楽しみです。明日その検討をしてもらうために両国に行くのだけど、確実に坂本さん(文化発信プロジェクト室の担当の方)を困らせるだろうな。楽しそうだと思ってもらえるとよいのだけど。眠い。

2011/02/14

2011/02/13 卒制を終えてこれから

横浜美術館、高嶺格さんの「とおくてよくみえない」はエロい描写に真摯な気持ちで、そのあとチェルフィッチュ《ゾウガメのソニックライフ》は、人の夢を覗いているような気分で。横浜で芸術を楽しんだ一日でした。


卒制を終えて、ナデガタと児童館行ったり、ことばのかたち工房の展示企画したり、西尾さんの展示「間を縫う」のオープニング行ったり、ageHaに遊びに行ったり、墨東大学に行ったり、ひょいひょいと出歩く日々。もう年度末になってしまったけど、卒制の間止まっていたものをブルルンとアクセル踏んで動かす感じで、そろそろ加速していきます。

2011/02/06

2011/02/05 卒業制作展2日目

現在開催中の卒業制作展、連日たくさんの方がお越しくださっています。


昨日は、中村児童館のあんどーなつとちえちゃんを招いて、「公開編集会議」と題したディスカッションを展示会場で開催。徹底して子どもを中心に据えた二人の視点は、論文を再構成する上でとても参考になる。録音を聞きなおして、あわよくば文字に起こして、さらに発展させていきたいと思います。ひとまず、第1部の《仕掛け編》はこのブログに公開しようかな。今回の卒論は、再編集して読みやすい形にして、何かしらの方法で流通させたいと思っているのです。小さい本にしたいなぁ。できれば500円ぐらいの文庫本サイズとかにしたい。



Nadegata Instant Partyの山城さんも今日展示見に来てくれたし、マッカリトークのメンバー石幡さんも、事務局の山口さんも来てくれました。大学-活動-プライベート、アイデンティティの複数性を行き来した感じでした。

そのなかで、今回チャレンジしたエピソード記録を山城さんにも安藤さんにもちえちゃんにも、楽しんでもらえたというのがすごく嬉しい。上手く機能するか不安だったんだけど、「行間を読む」という言葉を体現するかのように、読み手の方々はエピソードとエピソードの間に様々なことを想像したんだろうと思います。その想像を喚起したという意味で、成功だったのかと。

そうか、"行間を読む"というのは、"読む"という言葉は使われているけど、実際には"想像する"ということだから、読者によるイメージの創造だと言えるわけだ。これは。

そしてそのまま大友良英さんの船上ライヴに駆けつけ。

井の頭公園の森のざわめきに呼応するように響くノイズの音、「私にはセンスがないからわからないわ」という通行人の声、「こんな事やっていいと思ってんのか!」とドテラを着たおじいちゃんの怒号、そしてやがてぼんやりと見えてくるメロディ。そして、メロディの予感が沈んでいくと共に、浮かび上がる人びとの足音や囁き。

とってもよかった。

その後、ベトナム料理を食べて、ティーラテを買ってもう一度井の頭公園を散策。緩やかに一日が終わっていくのを、久しぶりに噛み締めるように味わっている。マンガでも読んで寝ます。

2011/02/01

2011/01/31 パーティーと物語

ひとまず卒業論文を書き終えて提出したわけです。が、そこにすべて出し切ったような感覚はないです。なんだろうな、料理を作ったはいいけど、フライパンごと食卓の上に載せちゃってる感じ。盛り付けとか、一切してないっていうか。これから編集と校正の作業をして、3月までにフリーの電子書籍として出せたりしないかなぁ。

今、一番興味が有ることは、物語を空間にすることです。そこで過ごす時間は、読者の判断による。本も、映画も、読者の時間の流れは指定されています。作者によって操作された時間を、読者は追うことになる。つまり編集というのは読者の時間を操作することだと思うわけです。

物語を時間の流れではなく、空間の配置として作ることは可能でしょうか。例えば、パーティーという状況を考えてみます。そこにはたくさんのひと、いくつかのテーブル、ドリンク、料理があります。どの料理、どのドリンクをどういう順番で食べるか、誰とどんな話をするのか、それはそこに出席した人が決める時間の流れです。そこにはただ、空間があるだけです。パーティーは出席者が空間を使って時間を編集することが可能なメディアなわけです。映画や小説はそうはいきません。

ここで「時間」という言葉を“物語”に、「空間」を“素材”に、「出席者」を“読者”に置き換えてみます。すると、

パーティーは“読者”が“素材”を使って“物語”を編集することが可能なメディアなわけです。

となります。ということは、パーティーの類推を使えば物語を空間化することが出来るわけです。

パーティーを盛り上げるのに必要なものはなんでしょう?
食事、飲み物、そして面白い出席者(登場人物)はもちろん前提条件です。
演説やパフォーマンスの披露、どっきりなども重要です。そのなかでぼくが面白いなと思ってるのは、ゲームです。ビンゴとか、まともにやったことないけど王様ゲームとかは、そのままパーティーするのとは違う、人や素材との出会い方に変化を加えていく方法です。

ゲームとは、方法。
パーティーとは、メディア。
物語は、目的ですかね。

というわけで、ゲームを引用した、読者による編集可能な物語のシステムをあと3日(実質2日)で作るつもりです。