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2010/12/11

12/10 見ることと教育、と図工(以外)


 見 る こ と と 教 育 、 と 図 工 ( 以 外 ) 

山本高之さん出演のトークを聴きに行ってきた。山本さんは昨日の夜自転車に乗っていて転倒し、顔に怪我を負っていてサングラスで登場していた。視線の非対称性が、場を不安にさせる。ねらってやっていたのかな?司会の成相さんの「みうらじゅんさんです」には笑ってしまった。

トークの内容は、クロード岡本少年が美術家や批評家に「天才少年」、「豆マチス」と絶賛されジャーナリズムのネタになったという話から、「子どもの感性は豊かである」という信仰を疑う内容になっていた。ワークショップというフレームの起源の話にもなっていた。山本さんの作品については「ワークショップ」なのか「教育」なのか、子どもを搾取しているだけなのかどうなのか、そんな議論が交わされた。

「問題点は多々出たと思うのですが、具体的にはどのようなことをお考えですか」という質問に対して、成相さんと星野さんが具体的な提案を返せていなかったことが気になった。「感性」への既存の考え方を崩してほしい、とか、先生たちに自分で考えてほしい、というのは期待であって提案という形にはなっていなかった。学芸員や研究者という立場でも美術の外側の現実に介入していくクリエイティブな実践は可能なはず。

「アートとの最初の出会いは、なんだか強烈で分からないものであってほしいと思っていますね。」

山本さんのこのセリフには説得力があった。山本さんの作品制作というわかんない体験に対して、大人になるについれてこうかな?こうかな?と自分なりに回答をつくりだしていってほしい。自分で考えられる大人になってほしいと彼は語った。そういう想いを持っている彼だからこそ信頼できる毒の強い作品をつくっている。

なんだかわからない、すごく困る体験を、子どもたちは作品制作の過程ですることになる。でもそれは、ワークショップやそれにまつわる教育の場に子どもを行かせる大人がいるから可能なのだ。大人がそういう既存の概念が解体される場(例えば美術館のような場)に自ら足を運ぶ場合、そのような人たちは解体されることへの「慣れ」を持ってしまっている。解体されることや揺さぶられることを望まない大人を、どうやって揺さぶるか。そこに作品の新展開が期待できそうだなと。

ところで今日はオープンミーティング最終会。「児童館」という場所の可能性と問題点を美術館と学校と照らして考えられたらいいなと 。「児童館」では、すべてが「遊び」になってしまう。遊戯性の高い美術は、その異質さを保つことができるのかどうか。小沢さんならどうする?山本さんは先生的な手法は通用しないかもよ?そんな話。

2010/12/10

12/09 芸大博士展

 芸 大 博 士 展 

この日は西尾さんの博士展の設営を手伝いに、上野の芸大美術館へ。謝礼金も出る、アルバイトだった。

『Self Select in Nairobi』の写真をひたすらピンで打ちつけていく。その数、40枚。

展示の設営は、結構苦労する。ある見せ方はパッとイメージできても、それを実現するための壁、道具、工具、出力形式、機材までは想像できない。これをササッと頭の中でリストアップできるといいなと。

この日西尾さんは、松戸から手持ちで運んできた脚立を使っていた。電車の中でいろんな人に見られたことについて、西尾さんはこう言う。

「モノを運ぶっておもろいよね、アフリカだとみんな自転車に大量にモノを積んだり、背負ったりするのが普通やのに、日本やとこんな小さい脚立運んでるだけで「何を運んでんねん!」という顔してくるやん」

あぁ、たしかに大きな荷物というのは日本では歓迎されない。コンパクト化されたものを持ち歩いたり、他の人(運送会社とか)に頼んだりする、誰かのサービスが内在化されている。「運ぶこと」「移動すること」の意味がアフリカとはやはり違うのだ。このことについて考えてみると、もうちょっと先が見えてくるかも知れない。

西尾さんの論文も読める、この展覧会は2010年12月12日(日)〜12月24日(金)まで。
博論の発表は12月14日午前10時から11時。日比野克彦さん(東京芸術大学教授)と苅宿俊文さん(青山学院大学教授)が聞き手になるそうです。注目。


東京藝術大学 大学院美術研究科博士審査展
会期:2010年12月12日(日)-24日(金)
月曜日休館
午前10時~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
会場:東京藝術大学大学美術館
東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程の最終審査を一般公開いたします。 本展覧会は、博士学位の修得を目指す学生達にとって最終関門であると共に、 大学院在学中の集大成としての作品、研究を発表し、今後、作家・研究者として活動していく上で、 出発点となる展覧会でもあります。
観覧料:無料
主催:東京藝術大学
問い合わせ:美術学部教務係
〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8
TEL:050-5525-2122ハローダイヤル:03-5777-8600



2010/12/09

12/07 迷子

「完全避難マニュアル」のドキュメントミーティングに参加して、ちょっとほろよいで寝てしまい、そのまま寝過ごして気づいたら清瀬だった。

清瀬は保谷から3駅離れた駅で、距離でいうと10キロくらい。雨も降っていたし、急に寒くなっていたけど、雨の日のタクシーは嫌いなのでぼくは根性で歩くことにした。駅近くのコンビニに直行して、大きいサイズのビニール傘と、キレートレモンを買って喉に流した。

しかし、清瀬から保谷の間、住宅地が延々と続き街灯も少ない。暗くて怖い。道もまっすぐなのがないし、iPhoneの電池が切れて地図は確認できなくなり、くねくね曲がってまた同じところに出るし、不安は募る一方。しかもお墓の塀の上で何かがひらひらと動いているのが視界に入るし。あれは多分、人を呼ぶ手の動きだ。恐怖のあまり傘を持って30分ほど爆走した。いやはや怖かった。


人間というのは不安になると自分の位置情報を把握したくなるものだ。街に落ちてるあらゆる情報で、それを把握しようとする。電柱に書かれた住所とか、車のナンバーとか。それに付随して家の表札とか病院の案内とか、いらない情報まで目に入ってくる。車のナンバーが多摩ナンバーだったり、「幸町」を「しあわせまち」と読んで「そんなまち現実にあるのか!?」と無駄に不安を募らせたりしながらひたすら歩き続けた。

街の音や雨の音がいやに大きく聞こえ、あらゆる情報が視界に飛び込んでくる。あんなふうに視覚と聴覚ががばーっと開いた状態になるのは久しぶりだった。それゆえに見えてしまった揺らめく“手”なのかも知れないが。

保谷の駅が見えたときは奇跡のようなうれしさだったな。帰ってきてから玲ちゃんがつくってくれたうどんが異常に美味しかった。

2010/12/07

12/06 ドキュメントの水面

蓮沼昌宏さん、林立騎さん、郷田真理子さんが三人でやってる「くそ勉強会」に参加させてもらった。超面白かった。こういう「勉強会」みたいのって、つまらない話が多くて退屈な場合が多いけど、今回のは違った。面白かった。

映画と演劇と美術と教育の「時間」の話をたっぷりした。「別」の時間を付け加えることが公共性だという話にはドキドキしてしまった。

そんな興奮が覚めやらぬまま、ワインとビールでぼーっとしながら茗荷谷まで歩いていると、山口さんから電話。

「臼井くん、今文京区にいるでしょ?わたし、後ろにいるよ」

ホラーかと思ったら、ほんとにいて、手を振ってる。そうだ、彼女の実家このすぐそばじゃん。駅までの道が分からなかったから、送ってもらった。女の子に送らせるってどうなの、って思いながら。

さて、今日とても考えたのは、「ドキュメント」とはつまりは水面を作るようなものなんじゃないか、ということ。地上から見ると美しい水面に見えるが、水面下ではもっと多様な生き物が生きていたり、残酷な廃棄物のたまり場になっていたり、見えない世界が拡がっている。水面下に引きずり込むタイプのドキュメントと、美しい水面として見せるタイプの2種類のドキュメントがあるんじゃないか。その両方を、うまくできないか。

これから、蓮沼さんから借りた『鏡の歴史』を読み込んでみる。

2010/12/06

12/05 カメラに依って

今日は東京都写真美術館に「ラヴズ・ボディ ー生と性を巡る表現」展を見て、「松戸アートラインプロジェクト」へ。帰ってきてからはみそ鍋を食べて、卒論を進めている。

 ラ ヴ ズ ・ ボ デ ィ 

「ラヴズ・ボディ」展は、タイトルの語感がいいので、前から気になっていた。友人からの評判はそんなによくなかったけど、最終日に行けてよかった。素晴らしかった。身体をヌードやエロスの表現だけでなく、あらゆる政治的、法的、権威的な「視線」にさらされるモノとして捉え直す試みだった。それらの「視線」や関係性の集積を表現するのに写真というメディアの有用性を訴えている展示でもあった。あらゆるものに規制され、規定され、それでも愛し合っちゃう人間って何なんだろうね、とそんな事でも呟きたくなるような、そんな作品たち。


 松 戸 ア ー ト ラ イ ン プ ロ ジ ェ ク ト 

その後、珈琲を飲んでから松戸へ向かう。西尾さんや石幡さんが参加している「松戸アートラインプロジェクト」の会期中なのでした。細かい内容については割愛するが、こういうアートプロジェクトに行っていつも悲しい気持ちになるのはなぜなのだろう。みんな頑張っているのはわかるのだけど、何かが悲しい。

「地域系アートプロジェクト」とか言うよく分からないことばが使われているけど、それを言ってしまった瞬間に、美術の「毒」がすっかり抜けてしまう。美術って何?表現って何?という辛辣な問いかけはすでになく、美術いいでしょ、なんかこういう感じ。いいでしょ…となってしているように見える。行く宛のない創作物たちを見ると、悲しくなるのだ。単純に、足を運んだのに、ガツーンと頭を揺るがされるような、面白いものに出会えない悲しみでもある。(この「創作物の行く宛」については、今考えていることがあるので、また明日にでも。)

なんだか少し前まで、「アマチュアリズムで行けるぜ!」とか考えていたけど、もはや無理。情報デザインからドキュメントまで、プロの参与が必要だって。アマチュアでも誰でもアートはできます、なんて幻想。フィクション。ファンタジー。



しかし、しかし、このプロジェクトにアーティストとして参加している村上慧くんの作品は理屈ぬきに面白い。彼の「家」とそれを作った理由。力抜け過ぎてていい感じ。高校の後輩なのだけど、今後が楽しみ。


 み そ 鍋 

まぁそんな取り留めもないモヤモヤと一縷の期待を持って帰ってきて、でもどうしてもモヤモヤが晴れなくて池袋をうろうろしているときに、無印の大きな土鍋を見つけてしまった。以前から美味しい鍋を食べたくて土鍋を探していたので、思い切って買うことにした。3300円。マッカリに帰ってみそ鍋を仕込み、食べているうちにテンションは徐々に回復。


 カ メ ラ に 依 っ て 

ご飯を食べてから、明日の卒論に向けて作業。evernoteで作った昨日のフィールドノートを見ていて、ふと思ったことがある。



ぼくは児童館に居て、中高生達と関わっているけれど、そんなに「児童館マジで大好きです!!」というわけでもない。この間の音楽祭の時も、高校生のバンドや小学生のダンス教室の発表を見ていて、恥ずかしい気持ちになったり、いたたまれない気持ちになったりするほうが大きくて、現場に乗れずにいる。むしろ引いてる。「うわー」って感じで。何もしないでただその場所に居るとき、ぼくはそんな感じなのだ。

でも昨日、コンパクトカメラを手にビデオを撮っていて、その映像を家で見ながら気付いた。映像に写っている彼らは懸命で、でも滑稽で、ぼくはそれを愛おしいと思っている。「カメラで撮影をする」というアイデンティティを持って、カメラに依って彼らとの距離を測り、安定できる場所を模索するのだろうなぁ。カメラに依ってぼくは彼らと関わることができるわけだ。

さて、明日はそのあたりも告知含めて話そうかな。